3 詩
繁華街の階に向かった。あたしが住む居住区は百一階から百十階まで。繁華街はその上階に広がっている。このビルは巨大で、サハラ砂漠の真ん中に突き刺さる格好で生えている。地下水を利用し、動力として砂漠の熱と太陽光を活用する。周りに他のビルはない。これだけで完結している。ここ以外に行く人などいない。皆ここで一生を過ごすのだ。あたしの父はよそから来たようだった。日本人だからアジアから来たのだろう。母はここの住人だったと思うけれど、もうここにはいない。
エレベータで移動していると色々なことを考えてしまう。
壁が透明なエレベータはあたしが指定したペットショップの近くへと移動する。縦に上がり、横にジグザクと最短距離を行く。景色が無機質なクリーム色から極彩色へと変わってきた。繁華街が近づいてきたのだ。
柔らかな、鳴り物入りのおもちゃのボールが転がるような効果音を立ててエレベータは目的地に着いた。広場には噴水。吹き抜けの天井には立体映像のアート作品が動きながら照射されている。今夜は満月らしい。旧式のロケットがたくさん月に向かっていく様子。月に激突する様子。最後に命からがら乗組員が小さな脱出装置で逃げていく。月移住に命をかけた人類を描いたアニメーション映像だ。月にはまだ限られた人間しか住めていない。
音楽が響く。あたしは流行の音楽が嫌いだ。騒がしく、リズムがない。一昔前の、そう、母が好んだ音楽を、あたしは何度も聴いていた。広場を取り囲むように小さな店が積み重なり、積み木そのものだ。カラフルな店がカラフルに組み合わされ、目にもやかましい。それぞれが音楽を鳴らしていて、ますますうるさい。
こんなうるさい場所にはいられない。あたしは歩き出し、ペットショップに向かった。積み重なった店の三階部分の外廊下を行くと、トンネルに行きあたる。その通路の途中にある薄暗い店。店名「ペットショップ」。店構えは陰気で、看板はただ店名を地味に描いたものが単純に光っているだけだ。中からはつんと鼻を刺す異様な匂いがする。動物の匂いもあるが、それだけではない。
「いらっしゃいませ」
あたしが中に入ると、店の一番奥から動物の剥製がこちらを迎え入れた。牡鹿だ。毛並みはつやつやと美しく、枝分かれした立派な角もよく手入れされている。狭い店内はガラスケースだらけで、ペリカンの骨格標本や猿のホルマリン漬けが置いてある。臭いは、これら動物の死体とその処理の工程によるものなのだ。
あたしは入り口近くの小動物のホルマリン漬けのコーナーを眺めた。小さめの壜にあまり容器と変わらないくらいの大きさのハツカネズミの子供が入っていた。目を優しく閉じ、眠っているみたいに見える。でも、この子は死んでいる。
この店ではどの動物も死んでいた。あたしはこの店に来るといつもほっと息をつけた。死は、美しいとさえ思った。
ハツカネズミの子供か、雀のホルマリン漬けがほしかった。小さいものなら剥製だって。でも、剥製はかなり高額で、ホルマリン漬けもそこそこした。今の時代、動物をむやみに殺すことは禁じられているので、これら動物の死骸は事故などで死んだものを偶然手に入れて剥製などに加工されているのだった。高いのは当然だ。
あたしはじっとハツカネズミを見つめる。ピンク色の鼻。丸いお腹。ぎゅっと体に寄せた手足。胎児ではなさそうだが胎児のようなポーズを取っていた。
「それ、ほしいんですか?」
男の声がした。あたしはどきっとして振り向く。ひげをたくわえた壮年の店主の男は、これら緊張感のある死の作品を作っているとは思えないような気の抜けた雰囲気だった。
「いつも見ているようだと思って」
椅子に座ってリングで新聞のようなものを見ていた男は、立ち上がってあたしの横に来た。男の体温を感じる。あたしはものも言えなくなって、ただ体を強張らせている。
「ほしいなら、あげますよ」
「えっ」
「ハツカネズミはこのビルにもよくいて、死体も手に入れやすいんです。それに、大事にしてくれるでしょう?」
あたしは黙った。嬉しかった。同時に施しを受けた気がした。それは多分貧乏なあたしの思い込みだけど。この人は、あたしをこの壜を受け取るにふさわしい人間と認めてくれたのだ。
「じゃ、じゃあ、いただきます」
「包んでおきましょう。丸見えだととやかく言われそうだから」
男は緩衝材の詰まった小さな箱に壜を入れ、更に取っ手をつけてくれた。急に気分が晴れた。次のETは華やかな文面になりそうだ、という気になった。
店を出て、歩き出す。今日は帰るのが楽しみだった。これを机の上に飾って、祭壇のようにするのだ。ハツカネズミはたまにしか見ない。木箱に入れたままにして、ホルマリンの溶液が変色しないようにしなければ……。
「ライラ! ライラじゃない?」
背後から明るい華やかな声がして、あたしはびくっと体を揺らした。わけもわからないまま肩を掴まれるままに振り向く。レラトだった。それとクラスでも特に美人の二人の友人。三人とも、あたしより十五センチは背が高い。囚われた宇宙人みたいな気分だ。
「ライラ?」
友人の一人が言った。レラトが慌てて「ほら、日本人とのダブルの子」と答える。それで友人たちは納得が行ったらしい。それでも、何でレラトはこの子に話しかけたんだろうという退屈そうな顔をしたままだ。
「ちょうど買い物してたんだ。ライラは?」
レラトは生来の明るさで、あたしに話しかける。いっそ気づかないふりをしてほしかった。ハツカネズミのホルマリン漬けを見に来たなんて、言えなかった。
「あ、あたしも、ちょっと買い物を――」
「何買ったの?」
「何も……」
「でも、何か持ってるよね」
レラトはあたしが右手に持った箱を指さした。心臓が早鐘を打つ。これを見られたら。もしそんなことになったら。動物の死体なんて、絶対に気持ち悪いと思われる。持ち主のあたしごと、嫌われる。
「見せて」
レラトの手が箱に伸びる。あたしは勢いよくそれを抱き寄せた。レラトが眉根を寄せる。
「嫌なの?」
「う、ううん……」
レラトは気分を害したらしい。唇の横を軽く掻いて、再びあたしを見たときには彼女はあたしに対する興味を失っているようだった。
「嫌がることをしてごめんね。じゃあ、わたしたち、行くから。またバーチャルクラスで会おうよ」
それから完璧な人懐っこい笑顔を浮かべ、手を振って待っている友人たちのところに向かった。彼女が友人たちに肩をすくめてみせるのを、あたしは見逃さなかった。
*
ETを、REDなしで読んでいく。やはり軽い興奮があるばかりだ。REDは一日一回しか服用してはいけないことになっていて、飲まずに参加するのは他の興奮している利用者を見るとつまらなく思える。
世界。破壊。死。エクスタシー。闇。それら過激な言葉を使う人々を見ても、少しどきりとするだけだ。やはりETを十全に体感するにはREDが必要なのだ。
「どうした? 今日は二回目のログインだけど」
マレクからのメッセージだ。あたしはちらりと机の上のホルマリン漬けの入った箱を見て、「最悪。クラスメイトなんて死ねばいい」と答えた。
「昨日も言ってなかった? 最悪って」
「今日も最悪」
「毎日が最悪なんだな」
「親は貧乏だしクラスメイトは高慢だし。あーあ、早く死んで楽になりたい」
「おれは毎日神に祈ってるけどな。早くおれを大富豪にしてくださいって」
「無理無理。大富豪なんて、新大陸人にでもならなきゃ無理だよ」
「おれら旧大陸人は、小銭を稼いで何とか生きてくしかないんだよな。ばっかばかしい」
ふと、思い出した。レラトは新大陸人――この世界の権力者の集団――の経営する会社で父親が働いているのだ。だから旧大陸人でもそれなりに裕福で、新しい服を買ったりおしゃれをしたりできるのだな、と納得する。この世は不公平だ。あたしなんて、父は貧乏暇なしを地で行っていて、母はなく、あたし自身は冴えない暗い子供だ。
「殺したい奴いる?」
マレクが訊く。あたしはびっくりする。誰かを殺したいなんて、思ったことがなかったからだ。ただ、死んでしまえばいい、とは思う。
「いないよ。マレクはいるの?」
「山ほどいるよ。ライラと交換殺人をしてやろうかと思ったんだけどな。残念だ。あーあ」
何となく、ぞっとした。軽い口調だけど、マレクは本気で言っていると思った。
「言葉でずたずたにしてしまいたい」
マレクは続ける。
「おれの言葉で、世界をずたずたに切り裂いてしまいたい」
あたしはメッセージが続けざまに届くのを黙って見ている。
「でも、そんなの世界中の人間全員がREDを飲んでおれのETを読まなきゃ成り立たないんだ。妄想だよ」
「でも、何とか生きてるんでしょう? 今は」
あたしは言葉を探してどうにか会話を好転させようとする。
「そう、何とかね。でも、不公平なこの世界を、転覆させてやりたい程度にはギリギリに生きてるんだ」
あたしは彼に対して近寄りがたく思う。いつものマレクだけれど、いつも以上に追い詰められている感じがある。無理矢理会話を終え、机の上のホルマリン漬けを見る。
ハツカネズミはじっと目を閉じている。
*
鼠の顔は穏やかで
死の優しさがそこにある
胎児の心は重すぎて
生まれた瞬間破裂する
昨日サイトに上げたこのETは、派手に人々を興奮させる他のETに紛れてひっそりと置かれたままだった。衝動的に作ったこのETは、あたしにとって大切なものだった。誰かのエクスタシーの踏み台として利用されたくはなかった。
REDはまだ飲んでいなかった。そんな気分にはならなかった。ただ、誰かあたしと心を通じ合わせてくれる人に、あたしのETを読んでほしかった。
時計の数字が大きくなり、ついには全部ゼロになる。メッセージの音がした。マレクだった。
「あれ、ETじゃないんじゃない?」
「そう?」
「詩だと思う。駄目だよETに意味を持たせちゃ」
サイトに意味を持った言葉を上げることは禁止されている。通常の状態ならさほど問題はないが、REDを飲んだ人間が読むと情緒に多大な影響を与えるのだ。一人で号泣したり、破壊衝動に駆られたりする。そういう事件を知っている。ニュース映像で金切り声を上げるETおよびRED愛用者のぞっとするような表情を見たことがある。あれは狂気そのものだった。
「意味は少しあるけど、あんまり大したやつじゃないよ」
「いや、ヤバいって。早く削除しないと、来るぞ」
何が? と問う前にそれは来た。リングが何度も震え出し、光を放った。休む暇もなくそれは続く。腕から離せないリングは、あたしに何かを猛烈に訴えだす。驚きながら見ると、大量のメッセージが届いていた。
「泣きました。あなたのETは素晴らしい」「死は美しい。おれもそう思う。今手首を切った。嬉しい。血が赤い」「今泣いています」「鼠がぼくの頭の中を満たし、激しく駆けずり回っています」「破裂。破裂破裂破裂。わたしも生まれた瞬間に破裂してしまえばよかった。もう疲れた。わたしはこの人生を選んでいない。死んでしまいたい」「死にたい」「死ぬ」「ありがとう。やっと気づいた。わたしは死にたいんだと」
左手首のリングはとめどなく震えている。あたしはただただ怯えている。メッセージの送り主はそれぞれ複数回あたしに感謝のメッセージを送った。あたしのETを褒めた。ただそれだけで、異様な恐怖を覚えた。
通知が千近くになったころ、ようやくサイトにたどり着いた。それまでメッセージを誤って開いてしまったりしてできなかったのだ。あたしは大切なETを――いや、詩を――削除した。表示されたあたしのETの前でさっと手を振るだけでよかった。
メッセージは止まなかった。どんどん、増えていった。あたしはすすり泣きながら何度も光って震える手首を体から遠ざけた。自分の体なのに自分のものではないようだ。このリングがついていて、メッセージが送られてくる限り。
しかし朝方には送りつけられるメッセージが少し減り、ベッドで寝落ちて目覚めたときには通知の結果だけが一万二千個ほどあるだけで、リアルタイムには何も来なくなっていた。あたしの狭いおんぼろの部屋では何もかもが元通りで、かえって驚くほどだ。
「怖かった」
とあたしはマレクに送った。すぐに返事が来た。
「だろ? おれも一回やったことあるんだよ。RED飲んでるときはやべーからな。ライラも読むとき気をつけろよ」
ほっとした。何事もなかったかのような朝に。でも、ETとREDに底知れない怖さを覚えた。これは、本当に安全な薬とサイトなのだろうか? もしかしたらあたしは人死にを出したのではないか? 確かめることなんてできない。でも、充分ありうることだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます