2 母

 ショーツを洗わなければいけない。REDの効果が切れ、マレクとの会話も終え、あたしのショーツはぐしょぐしょに濡れていた。ETのウェブサイトも閉じている。完全なる現実に戻ってきた。

 部屋を出ると居間で父がコンピュータに囲まれて仕事をしていた。

「ライラ、授業は済んだかい」

「うん」

「自動調理機でスクランブルエッグでも作って食べなさい」

「わかった」

 父はコンピュータから一瞬たりとも目を逸らさなかった。今回の納期はよほど厳しいのだろう。

 あたしは古い自動調理機の横の蓋を開け、四角いスペースにパック詰めになったたんぱく質の塊とでんぷん質のキューブ、ボトル入りの脂質のどろっとした液体、その他様々な栄養素の錠剤を放り込み、レシピ通りの材料が入ったのを確認すると調理を開始した。ゴウン、ゴウン、と調理器は動き続け、五分ほどしてから甲高い音が鳴った。調理終了の合図だ。最新式のものはこの程度の料理なら二分でできるらしい。これはおんぼろなのだ。

 蓋を開くとサイズ違いの四角い器に料理が盛ってあった。それをダイニング兼キッチン兼リビングの父の横で食べる。この部屋もあたしの部屋同様ぼろぼろだ。壁には百年前みたいに壁紙が貼ってあるだけだし、ソファーは繕ってあるし、オーディオセットもなく、リングとバーチャルクラス用のゴーグル以外では何かを楽しむこともできない。

 あたしはスクランブルエッグと小さな固いパンを食べる。ミルクもあるが、これらは果たして本物の牛や鶏から収穫したもので作られているのだろうか? 味はいつも同じでそっけない舌ざわりだし、全く感動がない。安物だから、全部植物性なのかもしれない。口の中でパンが水分を吸収し、慌ててミルクを飲む。

「ライラ、友達はなかなかできないなあ」

 父がこちらを向いていた。あたしはうんざりして彼を見る。

「バーチャルクラスの生徒に声をかけてみたらどうだ。きっと楽しいぞ」

「ううん」

 あたしはバーチャルクラスの生徒に興味がなかった。彼らはいつもつるみ、一緒に出かけ、自分の独自の世界を持たなかった。あたしは空想が好きだった。文字も好きだし、詩も好きだった。そんな人間はどんなに探してもバーチャルクラスの生徒にはいなかった。皆、平凡な友情を築き、平凡なパートナーと恋愛を楽しむ。たまに話しかけられても話が続かない。あたしはクラスメイトと一緒に出かけたことがなかった。もっとも、このシステムじゃ友情を築くにはよほどの意欲がなければいけないけど。

 孤独とは思っていなかった。ウェブ上の会ったことのない大人、つまりマレクにはすごく惹かれていて、あたしはほぼ毎日ETのサイトに入り浸って彼と話していたから。彼は謎めいていた。多分大人になったばかりだとは思うけれど、彼の言葉は大人びて、強烈で、あたしを目覚めさせてくれた。

 ETで遊び始めたのは、アンダーグラウンドの世界で流行っていたからだ。あたしは死をイメージした詩をよく書いていた。誰にも相手にされなかったけれど、マレクがやってきて「いいね」と褒めてくれた。そしてETで遊ぼうと言ってくれたのだ。

 ETは大流行している。錠剤、つまりREDも街角の自販機で手に入る。だからそんなものに目くじらを立てる大人も、それにおもねって批判するレラトも、馬鹿みたいだと思う。

「あのさ、お父さん」

 あたしを見て優しそうに笑う小汚い父に、あたしはそっけなく返す。

「普通の生き方なんて、あたしにはできないんだよ」


     *


 母はエジプト人で、浅黒い肌と稲穂のような金色の髪をしていた。特に美人ではなかったとは思う。でも、思い切った性格で、何でもズバズバとものを言った。おどおどしている人が大嫌いだった。相手が自己主張できないのは当人だけの問題だと言わんばかりに、その人が何も言わなくなるまでまくしたてた。母の前で無気力になっていく気の優しい人たちが、小さいころはとても気の毒だった。そんな強気の性格を表すかのように、母は髪を短く刈り上げていたし、アイメイクも濃かった。そして友達が少なかった。少数精鋭だとは言っていたけど、出ていく直前には会う友達が一人もいなくなっていた。

「まだ準備ができないの? 出かけるって言ってあったでしょう?」

 母がヒステリックにわめく声が、今でも記憶に残っている。母はあたしに対しても厳しかった。言葉が少ないあたしをひどく恥ずかしがっていたし、どうにか変えようと努力していた。でも、あたしはますます頑固にしゃべらなくなった。

「この子が暗いのって、絶対宗太郎のせいよね」

 忌々しげに、母はあたしの不満な点を父のせいにした。父は確かに物静かだった。でも、パートナーとして選んだのはあなたでしょう? そうは言えなくて、あたしはただ母の言葉をうつむいて聞いていた。

 あたしが八歳のとき、母のヒステリーは激しいものとなっていた。

「何でわたしの言う通りにできないの? いっつもそう! いつもいつも!」

 あたしや父に、怒りの矛先は向いた。例えばあたしがおもちゃの片づけをしなかったとき。父が仕事中で母の言葉にきちんと答えなかったとき。母も仕事はしていたが、遊びのようなものだった。自分で作ったくだらない立体映像をウェブで売ったり、街角でデモンストレーションしたりしていただけ。今思えば詩を書くあたしの趣味は母の遺伝かもしれないが、そのころは恨みに思っていた。あのころからわが家の家計は火の車だったから。あたしは他の子供みたいにきれいな服やおもちゃや書籍を買ってもらえなかった。何で他の子のお母さんみたいに働いて、あたしをかわいがってくれないのか。それだけであたしは母に憎しみを抱いていた。

 ある日、いつものように母のヒステリーが始まった。父が「少し外で遊んでおいで」と言い、あたしは大樹のところに行った。何の種類の木なのかは知らないが、きのこのような形をした大樹はビルの外に生えていて、遠目で見ると滑らかだがよく見るとごつごつとした樹皮が様々な色で彩られていた。広告が巻きつけられているのだ。新しい小型コンピュータがいくら、服がいくら、時計がいくら。人間の欲望に絡みつかれた大樹はただただしんと静かで、美しかった。あたしが住むのはビルの百四階で、大樹は少し離れた場所に堂々とあった。ビルの窓から大樹を無心に眺め、あたしは涙を流した。母に愛されたい。あたしはそれだけを大樹に願った。

 帰ったら、家の中が荒れ果てていた。ソファーはナイフのようなもので破かれて中から詰め物が溢れ出し、あたしのおもちゃや家族の食器類まで床に散っている。父が疲れ切った顔で片づけをしていた。何もかも諦めきった顔だった。母のことを訊くと彼はあたしを抱き締めた。

「ママは病気なんだ。しばらくしたら考え直して戻ってきてくれるよ」

 その言葉で、あたしは自分が母に捨てられたことを知った。もちろん母は今日まで一度も戻ってきていない。


     *


 着替えて出かけることにした。この家にいると疲れてくる。外に行けば人はいるけれど他人だし、会話が始まらなくて済む。流行遅れの柄のシャツを着て、髪を整える。鏡で見るあたしの目の下には隈があり、ETのやりすぎもあるがこれは生まれついてのものだ。無表情だし、縮れた髪は冴えない茶色だし、見れば見るほどがっかりする。

 家を出るとすぐに窓がある。壁全面が窓なので向こう側が切れ目なく見える。砂漠のただ中に大樹が見える。大樹には相変わらず広告が巻きつけられている。色が変わる広告。次々変わる広告の中に、ファッションモデルの募集広告が見えた。「美しさに自信のある十五歳以上」を求めているらしい。男だとか女だとかそれ以外だとかは書いていないけれど、あたしには関係がなかった。それなのにいつまでも見つめてしまった。

 大樹は泰然としている。あたしはこの木が何なのか知りたくない。ただあたしの精神の支柱でいてほしい。

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