3 心変わり

 ルイの元に、多くの意見が舞い込んでくる。新大陸人の処遇のこと、ドームのこと、新大陸に渡った旧大陸人の心のケアについて、今まで生活に困窮していた人々のこと、今困窮している人々のこと、ならず者たちの処遇について、新しい世界をどう築くのかについて。

 ライリーのコンピュータに映し出されるルイの支援者たちは、発言ごとに顔が入れ替わった。どの顔も必死で、真面目で、この世界をよくしようと考えていた。ルイは一見真剣に聞いているが、それは支援者たちからの非難を避けるためだろう。終わると伸びをして「やれやれ」とつぶやいた。

 声明は二日後、出すことに決まっていた。一週間もの間秩序を失った世界を放置した彼に、人々は不満を抱かないわけがないだろう。だから聡一郎を矢面に立たせるという彼の案は、彼自身の安全を考えたら間違いではなかった。ただ、それは正しくないともトウジは思う。

 声明はリングとコンピュータに強制的に映像を送って行う。ライリーの力で通信に割り込むのだ。

「宮岸聡一郎をきれいにしておかなければならない。傷跡はメイクで隠すとして、清潔感が必要だ。サンド、彼を君の家の風呂に入れてもいいかい?」

 四人もの子供たちに居座られ、囚人も一人抱え込まされているはずの家主のサンドは、「構わない」と平気な顔で答えた。

「彼はわたしたちに必要だから」

 聡一郎を見張るのはトウジの仕事になった。聡一郎の縛られた手は、当日までほとんどほどかれることはないらしい。


     *


 サンドの家の風呂はヒノキ張りだ。涼しげなヒノキの香りが湯船のお湯の温かさで強まる中、糞尿や体の垢、それに彼が殺したという男の血で染まった服を脱ぎ、聡一郎はトウジが脱衣所から見張る中、体を洗った。髪は脂で固まり、シャンプーをいくらかけても泥のような色になるだけで、うまく泡立たない。何度も何度も洗い、ようやくきれいになると、彼は体を雑に洗った。聡一郎の体は身長の割に細くて貧相だ。あばらの浮いた胸は、しばらくろくな食事を取れなかった影響だろうが。

「君はこれから利用される」

 トウジは体が強張ってうまく洗えない彼の背中を擦りながら言った。聡一郎は、ハハッ、と笑った。初めて笑う彼に、トウジは驚く。

「そんなの、わかり切ったことじゃないか。そうじゃなきゃ、おれは殺されてるんだ。むしろありがたいよ、利用価値があるってことは」

「今日は気分がいいんだな」

「最悪だよ。でも、おれは生きなきゃいけないから。オリビアに会わなくちゃいけない」

 オリビアという少女とは、新大陸での空襲の日に別れたのだという。ならば希望はほとんどないのではないか。そう思うが、彼にとってのケネスと父親も似たようなものだった。レジスタンス内でも意見が分かれているせいで、ドームは未だ閉じられているから、中にいる彼らは何も知らず、ただただ混乱している。中の様子がどんな風か、想像もしたくなかった。諦めることで保たれていた秩序は、外が変わることでどう破壊されるか――。

 聡一郎がくしゃみをした。トウジは我に返った。

「君に頼みがある」

 聡一郎は、清潔になったことでいくらか明るく見える表情で、トウジを真っ直ぐに見た。

「藤尾沙良、そして唐沢ライラという人物の無事を確かめてくれないか」

「知り合いなのか?」

 トウジが訊くと、聡一郎は首をかすかに振った。

「知りたいんだ。オリビアのことも知りたい。どうにか調べて、教えてくれないか」

 トウジはうなずいた。彼にできることはそれしかなかった。


     *


 ルイの支援者が、ひっきりなしにやって来る。サンドの広い庭の一角に青い布が張られ、机と椅子が置かれる。カメラが設置されて、何だか間の抜けたように見えるそこで、聡一郎は声明を出すらしい。ルイは熱心に取り仕切っているようなふりをして、時折退屈そうな顔でたたずむ。こんなこと、どうだっていいのだろう。これから何が起こっても、彼は構わないのだから。

 ドーランをはたかれ、傷やあざになった部分をファンデーションで隠された聡一郎がルイの支援者に取り囲まれている。台本を叩き込まれているのだ。間違ったらどうなるだろう。想像もつかないが。清潔な夏のスーツを着た彼は、どう見ても子供で、ソピアー社の新CEOには見えない。事実彼にその実績はない。一体彼に何ができるのか。実際は彼の父親のように何か命令を下す権限もなく、新大陸人の役員や旧大陸人の社員を決める力もないため、要は何もできないのだ。

 トウジはそっと彼に近づいた。支援者たちがそれを見て離れて行く。彼は名目上、ルイの友人。信頼されているのだ。

「緊張するな。おれはこういうの、いつだって馬鹿馬鹿しいと思ってたのに」

 聡一郎は、緊張からか高揚したような様子で手首を隠した。あざになった部分は肌と同じ色のテープで隠してあるが、袖の具合でその部分があらわになる。トウジはささやいた。

「君の言っていた人物たちのことがわかった。ライリーが協力してくれたんだ。ルイが集めていた日記の主たちだな」

 聡一郎は微笑み、ゆっくりとうなずいた。

「君も日記の主だった――。それで彼女たちの日記のことも知ったんだろう。まず、唐沢ライラだが、彼女は父親と共にサハラ砂漠を出て、トルコに向かっている。彼女が住んでいた高層ビルだが、今回の混乱で大停電が起きて、多くの機能が修復不能の故障を起こして住めなくなったんだ。とにかく無事だ。音声も聴いた。元気そうだったよ。ビルから出られることでむしろはしゃいでいるようだった。

 次に藤尾沙良。彼女は新大陸のシティーと呼ばれる都市部のビルの上階に閉じ込められていたんだな。もう十七歳になっていて、今は杉村静雄を始めとする二家族と、ヒト薔薇という短命の植物と共に外に出されたようだ。彼らの生活はウェブ上の番組で公開されていて、認知されていたし、彼らに同情的な人も多かったのが理由だ。新大陸が襲撃された際、レジスタンスたちに真っ先に解放された。今は新大陸からも出て、カナダにいる。スペリオル湖近くの広い家で、レジスタンスに守られながら生活している。コンピュータを通じてだが、彼女に接触し、君へのメッセージをもらったよ」

「……え?」

「今読む。『わたしは生きています。わたしを案じてくれる人が、外の世界にこんなにもいて、あなたがその一人だということに喜びを感じます。あなたは成すべきことを成してください』以上だ。君が何者かは言ってない。でも、君はやることがあると言ったらこういうメッセージが来た」

 聡一郎は顔を隠して呼吸を整えていた。それからすぐにトウジの顔を見た。トウジは、表情を変えずに続けた。

「君の恋人、オリビア・アンダーソンのことだ」

「怖いけど、聞くよ」

「彼女は――」

 そのとき、トウジの背後で騒動が起きた。ざわざわと人々がさざめき、闖入者を見つめている。その人物を捕えようとするルイの支援者たちを、ルイ自身が慌てて止めている。

「殺さないでくれ! 撃たないでくれ! ぼくの家族だ」

 必死になったルイを、トウジは今まで見たことがない。彼は男をかばうように支援者たちの前に立った。その男は頭頂部が禿げた茶髪で、年齢は四十歳くらい、服装は旅行中のラフな格好がそのまま汚れてしまったかのような様子だ。シャツの襟元は垢で汚れている。彼はルイを見つめ、無言で、泣きそうな見開いた目になって、彼に駆け寄った。ルイは勢いよく抱き締められた。

「無事でよかった!」

 トウジにはルイの横顔しか見えない。しかしひどく驚いているのはわかる。

「死んだかと思った! 旅行中に二人だけで行かせるんじゃなかったと……。ああ、本当に!」

 ルイの父親だ。そのことをこの場の誰もがわかっているようだった。彼は着の身着のままでここまでやって来た。あの襲撃のあとに。財産を凍結された、新大陸人であるにもかかわらず。

「メロディーはどこにいる? 一緒にいるんだろう? この人たちは何だ? 君を捕まえているのか?」

 ルイが震え出した。彼の父親をただただ見つめ、頭を抱えて。

「父さん」

「何だ。早くここを出よう。ヒッチハイクでここまで来たんだ。君に通信する暇もなかった。移動するのに必死だった。『山の上にある古民家』というものをあちこちで訊き込んでしらみつぶしに回ったんだ。麓の村は生えた草に火をつけられて焼野原だった。危険だよ。母さんたちの元に戻って、これからのことを考えよう」

「父さん。ありがとう」

「何だ。メロディーは……」

 ルイは赤くなった目を近くにいた背の高い男に向けた。

「父を捕らえてくれ」

 ルイの父親、アッシャーは驚愕で目を見開き、近づいてきた男が彼の腕を後ろにねじり上げるのに気づくと叫んだ。

「コリン、どうなってるんだ!」

「父を安全な場所まで連れて行ってくれ。しばらく眠らせておいてくれると嬉しい」

 父親は今朝までの聡一郎のように腕を縛られ、口を布で塞がれ、この場を遠ざかっていく。ルイはしばらく地面を睨みつけていた。この場の誰も、何も言えなかった。

「声明を、出すんだったな」

 ルイはぼくらに振り向いた。微笑みを浮かべて。聡一郎がごくりと喉を鳴らした。ルイの表情は何の感情も表してはいなかった。

「宮岸聡一郎、君にやってもらうはずだった。でも、リーダーはぼくだ。ぼくがカメラに映ろう。声明も、ぼくが出そう。それでいいだろう?」

 周囲がざわめく。何人かが彼に進言する。でも、ルイは頑なに自分がやると言った。トウジはほっとしていた。それが正しいと思った。


 太陽の日差しが燦々と降り、夏の間すっかり厚くなって脂で拭われたようになった木々の葉は、それを激しく照り返す。何匹もの蝉がジージーと鳴いている。美しい声の小鳥が鳴き交わしている。山の生き物たちには、人間たちのいざこざや感情の起伏、心変わりなんてどうでもいいことのようだ。

 カメラの向きが調整される。照明はルイを美しく照らす。きっとこの声明を目にした者は、彼が育ちのいい上品な少年だと思うだろう。ライリーが心配そうに彼を見つめている。リリーもだ。トウジと聡一郎は、真剣な目で見守る。

 今日の声明で発表すると決めているのは、新大陸人の財産の剥奪、旧大陸人の権利の復帰、リングの廃止、組織の掲げる理念、これから行われることなどについてだった。リングの廃止については、強力なメンバーであるサンドが強く望んだことだ。

 電波ジャックの準備が整う。ルイはいつも以上に完璧に微笑む。カウントダウンが始まる。スリー、ツー、……。

「こんにちは、初めまして。ぼくはルイ・ブラン。一部の若年層は知っているとは思う。ぼくが記録を送りつけたから。ぼくの記録の真偽が若い世代の中で噂されているのは知っている。もっともらしい嘘がこの混乱に乗じて送りつけられてきただけと、スパムメッセージとして扱われていることも。でも、あれは本当のことなんだ。

 ぼくが誰かと疑問に思う人がほとんどだろう。ぼくは今回の新大陸攻撃作戦の主導者だ。新大陸を襲撃したのは、ぼくが仕切るレジスタンスたちがやったことだ。世界政府の作った世界は、階級が分けられ、富は新大陸のみにほとんどあり、生活苦や信じられないほどの苦悩を生み出していたから。そしてぼくらはそれに我慢ならなかったから。

 だけどぼくらの住む世界は複雑だ。壊してすぐどうにかなるものじゃない。現に壊れたあとの世界は無秩序で、秩序だけはあった世界政府の時代よりも混乱している。だから、声明を出すことにした。ぼくらは世界をまた整える」

 ルイは落ち着いていた。こういうことに関して、彼には素晴らしい才能があった。最初は穏やかに、レジスタンスについて語るときは少し顔をしかめて強く、世界について語るときは真剣な表情で。声も全く震えない。彼はよどみなく語り続ける。

「新大陸人の資産は凍結した。しかし時期が来たら一部彼らに返そうと思う。世界を整え、法整備を終わらせるそのときが来たら。そんな時代が来たら、新大陸人も旧大陸人もない、新しい生活に代わっているはずだ。歴史に学ぼう。ぼくらはフランス革命のようにも、日本の身分制度の廃止のようにもしてはいけない。ぼくらは誠実に、人を殺さず、誰一人差別されることのない、特例のない、新しい時代を築かなければならない」

 支援者たちがざわめいた。言っていることが予定と違う。殺さず、なんて文面はなかった。彼らは新大陸人を多く殺していた。恨みと怒りで、懺悔するまでなぶって、罵倒して。資産を返すなんて発想もなかった。彼らのうちいい人間だけ残して全滅させる。そう願う者のほうが多かったのだ。

「ぼくはよりよい時代を築きたい。ぼくがいたような南の島の刑務所の存在みたいに、非人間的なことがあってはならない。ぼくはそこから助け出され、ここまで幸せに生きてこられた。けれどぼく以外の人たちは太陽の光も入らないそこに残され、食料は必要最低限にも及ばず、水もほとんど供給されず、飛行機や車や、子供のおもちゃや大人が使うためのおもちゃを作らされていたんだ。彼らのことも、ぼくらは考えなければならない。考えるだけでなく、救わなければならない。彼らだけじゃない。ぼくらは世界を救わなきゃいけない」

 トウジは息を呑んだ。ルイの言葉は強くなっていく。駆り立てられるように、高みを目指すように、声も大きくなっていく。

「ぼくらはリングを使い続ける。ぼくらに情報は必要だ。世界を知るために、他人を知るために。これからはこのリングを正しく使わなきゃいけない。情報を集めて管理するためじゃなく、階級制度を強化するためじゃなく、他人を羨むためじゃなく。ぼくらにこのテクノロジーは必要だ」

 予定とどんどん乖離していく。ルイ自身の普段の発言からも離れていく。

「ぼくらは世界にこう要求する。よりよい世界を作れ。それに全ての人間が参加しろ。他人を愛せ。ぼくたち人間にいつだって必要だったのは、そういうことなんだ。

 具体的にはぼくらは新大陸人と旧大陸人を取り混ぜて会議を行う。レジスタンスだけではない、普通の市民も、南の島の刑務所出身の人間も、『ザ・フリーク・ショー』の登場人物だった人々も。

 三日後の午前九時、ぼくらはボストンのマサチューセッツ地区会議事堂で会議を行う。参加者を募る。次に表示するゲートにアクセスし、参加を望む者は応募してくれ。以上だ」

 ルイが微笑んでカメラに手を振ると、ジャックは終わった。しん、と静まり返っていた。ルイは真顔になり、椅子から立ち上がって歩き出す。

「どういうことなの?」

 女がルイに詰め寄った。ロゼと呼ばれていた彼の仲間だ。今回の電波ジャックのためにやってきたのだ。

「新大陸人に財産を戻すなんて! そんなこと全く話し合ってなかった」

「わたしたちは多くの新大陸人を殺したんだ。君のような理想論を述べたとしても、そのあとうまく行くはずがないじゃないか!」

 そう叫んだのはジョージだ。髪を掻きむしり、苛立っている。

「リングを廃止しない? それがわたしたちの計画の肝だったんじゃないか? 管理社会をやめる。世界を百年前に戻す。黄金戦争前にね」

 サンドが離れた場所から今まで誰も聞いたことのない冷たい声で言った。

 ルイはまた微笑んだ。それが支援者たちの怒りの引き金となったようで、多くが彼に非難をぶつけた。

「理想ばかり」「いや、嘘ばかりだ」「あなたはおれたちの使命をどうも思ってなかった。当然の帰結なんだろう?」「殺した分だけ返って来る。同じテーブルに着いたらわたしたちは殺される」

 リリーが気を揉むようにその騒動を見ている。聡一郎は唖然としている。ライリーはコンピュータを開き、トウジはそれとにらめっこしていた。

「おれたちが用意した、誰のものでもないジャンクスペースに、連絡が殺到してる。レジスタンスではなさそうな若者や、新大陸人、それに――南十字星保護観察ドーム群の少年も」

 ケネスだ。ドームを出たのだ。ルイを見たのだ。彼らしい荒っぽい言葉で、「一体全体どうなってるんだ? ルイ」というコメントがついている。トウジは微笑んだ。

 ルイの支援者たちはトウジたちのほうを振り返り、怒りをもってルイを見た。ルイは肩をすくめ、

「こんなに大勢の前で言ってしまったら、実行しないわけにはいかないだろ?」

 と笑った。睨みつけ非難する彼らの中を、ルイは突っ切って歩き、サンドの家にたどり着いた。

「三日後までにマサチューセッツに行かなければならない。準備をしなきゃ」

 そう言って彼は屋内に入ってしまった。

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