14 「さよなら」

 またドニが時間を確認し、おれは今何時なのかと思ってリングに触れた。昼の二時ちょうどだった。ドニが立ち上がった。それからおれのほうに真っ直ぐに歩いてきた。おれたちは物資置き場にいた。ここは広く、寝室と違って窮屈ではないから。

「聡一郎様。銃はお持ちですか?」

 ドニは微笑んでいた。しばらくぶりの笑顔に驚きながら、おれは首を振った。

「銃は忘れてきたんだ。母の銃も急いでいたから拾い損ねた。何をするんだ?」

 ドニはにっこりと笑った。それから後ろ手にしていた右手をゆっくりと前に出した。大きなリボルバーが握られていた。驚くことはない。物資の一部だ。

「どうするんだ?」

「いえ、地上に出て、様子を見に行こうと思っておりまして」

「そうか」

 おれは物資の隙間から取り出した拳銃を、ドニに突きつけた。

「おれもこの状況に決着をつけなきゃいけないと思ってたんだ」

 ドニは驚いたように目を見開いた。それからじわじわと表情を変え、にたりと、薄笑いを浮かべた。

「なーんだ。気づいてたのかよ」

「ああ」

「いつから?」

「……最初からお前は変だと思ってた。危険を冒してまで銃弾をおれに渡そうとしてくるところからして、普通の倫理観は持ってないと思った。娼婦を呼んだ時のお前の様子も、何だかおかしかった。おれの母に取り入るのに、愛人になりきるのも普通じゃないと思った。お前は、何だか異常な空気を醸し出していた。……この三日間、おれはお前が犯人じゃないようにと願ってた。でも、もう時間切れだな」

 じりじりと、おれたちは離れていった。ドニはにやにやと笑い、リボルバーは下げたままだ。

「お前の母親、傑作だったよな。おれのこと、メロドラマの俳優みたいに思ってて、自分はヒロインのつもりで恋愛ごっこを楽しんでるんだ。ま、殺されるときにはすごく驚いてたな。おれのこと、本気で信頼してたんだろうな」

 おれは、狙いを定めながらドニをじっと見つめた。

「いくつか質問がある」

「いいぜ。好きなだけ訊けよ」

「父はどうしてる?」

 父を最後に見たのはドニだ。確実に知っているだろう。

「おれは殺してない」

 ドニはつまらなそうに口を結んだ。

「使用人の女たちが皆で殺した。物置に連れて行って、首を絞めてな。あいつは女たちに恨まれていた。女たちは鞭で打たれた者もいたそうだ。あいつのベッドルームでな。気持ちはわかる。でも、あいつはおれも殺したかった。味がわからないくせに、注文をつけやがる。塩をいくら増やしても死なないから、不死身なのかと思ったな」

「父は、どこに」

「厨房の冷凍庫の中だ」

 ドニは息を漏らして笑った。

「お前たちの料理の材料は、お前の親父の死体の側から取り出してたんだぜ」

「そうか。じゃあ、二つ目の質問だ」

 ドニは眉を上げて嬉しそうな顔をした。それを無視して続ける。

「シルヴァーノは誰が殺した?」

 くつくつと笑い声が聞こえてきた。心底楽しそうに、ドニはおれを見ている。

「シルヴァーノはな、あいつに犯されてプールに落とされたとかいうすごい経歴の女が殺してくれって言ったんだ。派手に殺してくれってな。きっとあの女は狂喜してるぜ」

「きっと、ボクサーと元給仕も参加した作戦だったんだろうな」

「よくわかってるじゃねえか」

 ドニはにやにや笑う。

「あいつらはおれも加担してる反政府活動に参加してる。おれが誘ったんだ。おれはな、新大陸で新大陸人に恨みのある旧大陸人を集めて回ってたんだ。たっくさんいるぜ。犯された、仲間を殺された、侮辱された、もう、わんさか。こっちが胸焼けするくらい、あいつらは不幸を抱えてた。おれがちょっと話を聞けば、恨み辛みが溢れ出す。あいつら、本気で新大陸をぶっ潰したいと思ってるぜ」

「それはわかってる。もう話さなくていい」

 ドニはとうとう声を出して笑い出した。ゲラゲラ笑い、腹を抱え、心底満足であるかのようにおれを見る。

「全部。全部さあ」

 ドニはおれを見て下品な笑みを作った。

「わかってて見逃してたんだろ?」

「予感があっただけだ。お前が何かをするって」

「でも、そのままにした。お前は、ここを滅茶苦茶にしたくてたまらなかったから」

 全身にぞっと寒気が走った。確かに、気づいていた。ボクサーと元給仕に対するドニの目配せにも、父に対する強烈な殺意に満ちた目つきにも、使用人同士のささやきにも。おれはそれを全て無視していたのだ。

「ふ」

 声が震えていた。おれは少しずつ突き崩されそうになっていた。

「フアンは……」

「ああ、フアン・ジュアン。あいつはお前に対する愛着が凄まじかったからな。計画は伏せてあった」

 動揺が体を走った。おれのせいだ。

「お前を育てたのはフアンのようだな。あの親じゃあ、まともに子供を育てそうには見えないからな。お前との思い出をおれたちに何度も語ってたよ。あいつ、いい奴だったよな」

「おれは」

 声が震えた。

「お前がフアンを殺したんだな」

 ドニはにっこり笑った。このときばかりはいつもの彼に見えた。それから銃をかちりと鳴らした。おれに向け、美しい微笑みを完璧に作り、

「あーあ、もう終わりか!」

 と叫んだ。

「つまんねえなあ! おれに銃を向けたときはお前にも度胸があるじゃねえかと感心したものだが、やっぱりお前はお優しいだけの甘ちゃんだよ! 新大陸人は全員張りぼてだが、お前は一人だけ紙屑みたいにもろくてどうしようもない」

 おれはなおも銃をドニに向けているが、いつの間にか手が震えている。

「憧れの新大陸なんて、こんなもんだな! こんなもん、早くぶっ壊して自分たちのものにしないとなあ……。さあ」

 ドニのリボルバーは、安全装置が外されていた。おれは、手は震えていたけれど、今がやるべきときだとわかっていた。でも、指が動かない。

 パン、と乾いた音がした。ドニは真顔でこちらに銃を向けており、銃からは硝煙が立ち上っている。残響が資材置き場で鳴り響き、今撃たれたのだと気づいた。同時に、耳が猛烈に痛み出した。左耳を触ると、一部欠けていて手がぬめった。手には見たことのない量の赤い血がついている。ドニは残念そうに笑い、つぶやく。

「ハズレ。やっぱり、おれは料理のほうが上手いかもな。顔を狙ったのに……」

 はあ、はあ、と肩で息をしていた。命の危機に、晒されていた。手はがたがたと震え、ドニに向けて銃を構えているつもりが、焦点が合わない。

「お前はどうなんだ? この新大陸をぶっ壊されてもどうも思わないからおれを野放しにしたんだろ? じゃあお前自身も死にたいのか? それなら確実に殺してやるし、仲間に引き渡したりもしないけど」

 夏の休暇が始まったときの、別に死んでも構わない、という気分を思い出した。あのときのおれは銃を撃って怒りを発散させるだけの人間だった。でも、今のおれは違う。オリビアの顔が思い浮かんだ。彼女がおれの前で微笑み、おれを抱きしめ、キスをしてくれた日々を思い出した。彼女が、この世界にいるであろうことを思った。ただ怯えてなんか、いられなかった。

 おれは銃の引き金に力を込めた。乾いた破裂音。猛烈な反動。母の小さな銃とは比べ物にならない。ドニはよろけ、また体勢を立て直した。彼の左足からは真っ赤な血が吹き出していた。おれが撃つときにドニも撃っていたが、幸い、それは当たらなかった。ドニを殺さなければ。殺さないと、彼女に会えない。

「やっと殺意を抱いたか?」

 ドニはおれの顔を見ながら満足げに笑った。彼は肩で息をしていた。

「普段からお前の聖人君子っぷりにはいらついてたから、気持ちいいよ。どうだ? 自分の中の暴力を自覚するのは」

 どきりとする。ドニは、嬉しそうに笑った。

「人間誰しも暴力を心に抱いてるんだぜ。あいつに侮辱された。殺そう! あいつのほうがおれより上だ。殺そう! 助かりたい。殺そう! 自然な感情だよ。動揺することはないんだぜ」

「おれは、殺したくないよ」

 おれは銃を向けながら、気づけば泣いていた。

「お前のこと、好きだったんだ」

「へえ」

 ドニは眉を上げて笑う。

「お前はどこか、信用できるところがあった。何かするとは思ってたけど、嫌いにはなれなかった。おれは、信じてたんだ。きっとお前の正しさが――おれの世界を――」

「いい加減にしろ! いいから早く認めろよ。お前はおれと同じように、立派な動機を抱いてるつもりで、人を殺すんだよ。さあ、認めろ!」

 気づいたときには、ドニは倒れていた。おれは、構えていた腕に伝わった衝撃と、物資置き場に広がっていく残響を、茫然自失の状態で感じていた。ドニの白い制服の腹部には、血の赤い色がじわりじわりと広がっていった。彼は生きていた。大きく何度も呼吸していた。おれはそっと彼の元に行き、彼が落とした銃を遠くに蹴り飛ばした。彼はそれをじっと見て、笑った。

「完璧な人殺しの所作だな」

「ドニ」

 おれは彼を見下ろし、溢れる涙を腕で拭いていた。

「ごめん。ごめん。痛いだろ」

「痛えよ」

 ドニは、短く何度も呼吸を繰り返した。

「認めるか? お前の中の暴力を」

 おれはうなずいた。

「お前の中にも汚らわしいものがあるってことを?」

 また、うなずく。ドニは満足げに笑った。

「なら、いい」

 いいわけがなかった。彼はおれに撃たれ、死のうとしている。血だまりはどんどん床に広がり、おれの靴を浸すまでになっている。

「お前は、この世界をどうしたい?」

 彼は唐突に訊いた。おれは首を振った。

「そんな大きなことを、考えたことがないんだ」

「駄目だな。それならお前が死ぬべきだった」

「ごめん」

「じゃあ、どうして生き延びたかった? お前は生に執着がなかったのに」

「オリビアに、もう一度会いたかった」

 おれの言葉に、ドニはしばらく考え、「ああ」とつぶやいた。

「あの女か。どうせ生きてるかどうかわかんねえんだろ?」

「でも、一パーセントでも会える確率があるんだったら、会いたいんだ」

 ドニは長いため息をついた。

「馬鹿か。そんなことのためにおれが死ななきゃならねえなんて、おかしいだろ」

 彼の目つきは、うつろになってきた。血だまりは、どんどん広がっていく。

「お前は、生きる価値のないカスだろ? カスはカスなりに地を這って生きろよ」

 呼吸が荒くなっていく。

「……お前は、生きればいい。おれを殺してでも、生きればいい。花火のように一瞬でも、生きるんだ」

 おれは涙が止まらなかった。彼は、おれに対する愛憎を行ったりきたりしていた。彼のうわごとが次第に激しくなり、言葉は短くなっていった。

「どうせおれは生まれたときから……」「お前に伝えたい。おれの人生は……」「いや、もう手遅れだ」「惨めな人生を終わらせるのもいいかもしれない」「いや、おれは生きるんだ。生き延びて……」「生きろ。お前は生きて、今度こそ生きて」「死にたくない。死にたくない」

 彼のうわごとを、彼の手を握りながら聞いた。涙が止まらなかった。彼の握力は、どんどん弱まっていく。

「聡一郎」

 ドニはふと正気に戻った表情になった。おれをじっと見つめ、笑う。

「怒りは、収まったか?」

 体中の力が抜けていった。おれは、怒っていた。父に、母に、シルヴァーノに、新大陸人に、新大陸に。彼らが死んだと知ったとき、おれは心から安堵していた。怒りはどこかに消えてしまった。おれは、ドニの行いを認めていたのだ。彼の言う通りだ。おれは暴力を内包している。認めたくなかった。でも、認めざるを得ない。

 おれは暴力によって解放されていたのだ。

 ドニは微笑んだ。優しい顔で。それから、目を閉じ、息を吸い込んだ。全身の力が抜けていく。おれは彼の名を呼んだ。彼の体は生き物ではなくなっていった。刻々と腕は重くなっていき、ただの物となっていき、彼は、永遠に動かなくなった。

 慟哭し、彼の体を抱きしめた。ズボンの膝には彼の血が染み込み、体中が彼の血で汚れていた。おれは、彼を殺した。尊敬していた友人を。それは、誰にも否定のしようのない事実だ。

 しばらく、呆然としていた。彼のそばにうずくまり、動かなかった。でも、このままここにいても仕方がない。おれは、日記を書くことにした。

 日記泥棒。おれはこの日記をお前にやるよ。おれが生きた証を、受け取ってほしいんだ。世界中に公開して、おれは生きてたんだって、言ってほしいんだ。

 生きなきゃ。おれは、生きなきゃいけない。

 オリビアを抱きしめて、愛し合って、子供を作って、そうだ、幸せにならなきゃいけない。

 ドニは、おれを生かした。殺せるのに殺さなかった。ずっと躊躇していた。

 生きなきゃいけないんだ。

 ただ生きるんじゃない。生きてるって実感しなきゃいけない。

 そうだ。生きるんだ。

 この日記の中で、おれは訂正したいことがある。日記泥棒、ちゃんと盗んでくれよ。

 トウジ・ミュラー。おれは君が生きていないだろうと言った。現実的に考えて、生きているはずがないと思ったんだ。でも、おれは、君とリリーが生きているといいって思うよ。ケネスも、何とか助かっているといい。

 藤尾沙良。君たちはそこから出られるだろう。時代はきっと変わる。だから君たちはいつまでもそこに閉じこめられていることはないんだ。いつか、会えるといいって思うよ。

 唐沢ライラ。君は不幸な人間だ。おれは、やっぱり何もできないと思うけど、君が幸福になることを願うよ。

 希望観測的なことばかり言っているけれど、これはまごうことなき本心だ。おれたちは、生きていいんだ。

 それから、オリビア。君が生きていて、うまくこの日記を読めたときのために、こう書いておくよ。

 君を愛してる。おれは、君がいたから初めて生きていると感じられたんだ。どうにか生きていてほしい。おれは、君のところに行くよ。たどり着こうが着くまいが。

 さあ、この日記もおしまいにしなくちゃ。早く地上に出て、オリビアを探さなくちゃ。

 日記泥棒、ありがとう。おれは行くよ。世界がどうなろうが、おれは生きる。生き延びられるかはわからない。ただ、生きた感覚が必要なんだ。

 じゃあ、さよなら。










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