6 お父さん
バオバブの木は、ここから二時間かかるのだそうだ。
「とてもじゃないが、時間内には戻れない」
マレクは陰鬱に言う。
「じゃあ、どうすれば――」
「おれがどうにかする」
彼はあたしの手を取り、リングからキューブ型の立体映像を表示させた。それをしばらくいじる。あたしの頭は砂漠の暑さで煮えたぎって彼が何をしているのか考える余裕もない。五分ほどして、彼は顔を上げた。
「これで大丈夫だよ」
時間のカウントダウンが消えていた。あたしは眉をひそめ、「何をしたの?」と訊く。彼は黙って歩き出す。
砂漠の二人連れは、バオバブの木が目印としてあるにしても、二人きりの世界にいるような気分だった。あたしは、前からそういうところがあったけれど、マレクをますます好きになっていた。あたしたちは、これから――。
「おれが何であんなことをしたか、訊きたいんだろう?」
マレクが不意に声を出した。
「おれが、どうしてライラ含む大勢の同年代を痙攣させたり、苦しませたり、自殺させたりしたか――」
「ううん」
あたしは答えた。楽しい気分で。マレクは黙った。そのまま前を向いて歩き出した。
汗と乾燥と熱で、あたしは干からびてしまいそうだった。マレクは水を持っていた。でも、あたしにはくれなかった。自分だけ、一口飲んではリュックにしまう。木は、近づいているという実感がないままに近づいてくる。
バオバブの木には、あたしの体力がなくなる前にたどり着くことができた。あたしはばったりと倒れ、ごつごつとした真っ直ぐな木を眺めた。木陰は巨大で、ここだけ寒くなるくらい日差しが遮られている。木肌を撫でた。固く、乾燥し、手の水分を奪う。
「この木は、砂漠の緑化のために植えられたんだ」
マレクが語りかける。珍しく穏やかな表情で。
「何本も生えていたはずなんだ。それが、砂漠の厳しさでどんどん淘汰されて、一本だけ残ったんだ。奇跡のような木だよ。おれはいつだってこの木に祈りたくなってた」
彼は木を見上げる。大量の広告が巻きつけられ、バオバブの木は俗っぽく飾り立てられながらも凛と美しい。けれど、あたしの精神の支柱だったこの木は、何の感動も与えてくれなかった。あたしはこの木を崇拝していた。この木の根元なんかに来るべきじゃなかった。触ったりするべきじゃなかった。名前を知るべきじゃなかった。この木は実在すべきじゃなかった。
「あたしも好きだった」
乾いた口を頑張って動かす。マレクが振り向き、遠くを見て笑う。次に言った言葉は、あたしを何も驚かせなかった。
「お前は何を考えてるんだ?」
マレクがあたしを見下ろしている。水色の目は、怪訝そうに細められている。
「何で犯罪者とここにいる?」
あたしは何も答えずに来た道を振り返って眺める。ビルは真っ直ぐに砂漠に突き刺さり、おもちゃのようにそこにある。キラキラ光っている全面のガラス窓が、ますますおもちゃか、加工した映像のように見えた。ポケットの中を探る。病院にも持ってきてもらってよかった。ハツカネズミのホルマリン漬けは、あたしの手の中にある。
「いいんだ。あたし、一人は嫌だから」
マレクは真顔になった。しばらく考え、ボトルを出して水をぐいっと飲み干し、それを捨てた。
「じゃあ、また歩こう」
「どこへ?」
「行けるところまで」
顔の皮膚はますます焼け、火ぶくれを作ってしまいそうに痛い。足も痛くて、筋肉は疲労し、かかとは靴擦れを起こしている。それでもマレクは構わず歩く。時間は刻々と過ぎていく。もうとっくに二時間なんて過ぎている。
段々冷えてくる。あたしは水分もなしに歩き続けた体が、自動人形のように動いているような気がしてくる。目の前が回転する。ぐらぐらと揺れ、――あたしはいつの間にか倒れていた。
マレクは立ち止まる。もう、夕暮れだ。彼の足元からあたしの体に、濃い影が差しかけられている。
「ここで死ぬか?」
「こ、殺して」
「それが目的なんだろう?」
「うん」
うっとりと満たされた気分だった。あたしはマレクに殺されたかった。マレクはあたしを殺して、初めて実際に手を下した犯罪におののいて、自殺してしまう。あたしを殺すのは首を絞める方法がいい。マレクが死ぬのはナイフで首を切る方法がいい。きっと素敵な瞬間だ。あたしたちは砂漠の真ん中に二人で並んで死ぬのだ。ああ、何てドラマチックなのだろう。
マレクはあたしを見下ろし、哀れみを浮かべた優しい目をして、――大きくため息をついた。
「お前が今おれと一緒にいるのは」彼は呆れたように肩をすくめた。「おれが声をかけた十八人の女の子の中で、一人だけ来たからだ」
あたしはもう頭の中が干からびて、ショックも悲しみもない。ただただ彼の言葉を聞いている。
「おれは道連れがほしかった。死ぬための。でも、もう気づいたよ。おれにはお前は必要ない」
「殺して」
「嫌だよ。前々から思ってたけど、――お前は自意識の化け物だ」
目から涙がこぼれる。冷たい砂漠を濡らす。
「殺してよう」
「お前は自分を特別だと思いたがりすぎる。本当は特別なんだと思いたいんだろう? でも違うんだ。おれはそういう段階はとっくに通り過ぎて、見てるだけでも痛々しくて辛いよ」
「ねえ、ねえ」
「お前がおれにくっついてETを始めたのも、ウェブ上で卑猥な言葉をかけるおれに構うのも、ここにやって来たのも、全部自傷行為だよ」
あたしはしゃくりあげて泣く。早く、早く殺してほしい。そしてあたしはニュース映像で取り上げられて――。
「その自傷行為を、何のためにやってるんだ? おれは、それを引き受けられないよ。一人で行くから、帰れよ」
あたしは、一人で死にたくない。ああ、マレク、あたしを一人にしないでほしい。段々遠ざかる彼を、追いかけなければ。
あたしは立ち上がった。さく、さく、と足を踏み出す。彼は早足になって進む。
「待って」
「ついてくるな」
「待ってよう」
「だから……」
彼の言葉は笛のような音で遮られた。彼は立ち止まったまま、何かを見上げ――それは小さなトンボ型の無人飛行機だった――何事かをつぶやいた。死にたい、なのか、生きたい、なのか、どちらなのかわからない言葉を。彼の口から血が溢れてきた。腹部からは派手に血が噴き出している。ぼた、ぼた、ぼた、と血は砂漠に落ち、砂に吸い込まれていく。彼は、無人飛行機に撃たれたのだった。
「マレク、死ぬの?」
彼は棒きれのように倒れ、何度も血を吐いた。血はどくどくと溢れて止まらない。マレクはもう何も見ていない。水色の目は、ただ空の方向を向いているだけだ。空は、もう上から順に群青色に染まっていくところだった。あたしはマレクを見下ろした。立って、しゃがんで、ためつすがめつ。あたしは彼が羨ましい。同時に、気の毒だ。死ぬのは彼一人だけだからだ。
「ライラ! 無事か?」
誰かの職業的な声で「容疑者射殺」「被害者無事確認」などの声がしたあと、警察のマークをつけた無人飛行機から聞き覚えのある声がする。父の声だ。あたしは突然自分が可哀想になる。声が涙で濡れ、父を呼ぶ。
「お父さん。お父さん。助けに来てくれたの?」
「もちろんだよ。警察の人がすぐに来てくれるから、そこにいるんだよ。ああ、見つかってよかった」
父の声は焦り、優しく、あたしにだけ向かってきている。父は、あたしを必要としている。あたしはぞくぞくとするような嬉しさで震える。
「うん、ありがとう。ごめんね、こんな娘で」
「いいから。お前はお父さんの娘だ。愛してるよ。だから――」
あたしはむせび泣く。父の言葉はもう耳に入ってこない。求める言葉をもらえたから。
あたしは確かに、自意識の化け物だよ、マレク。
でも、レラトのように美しくもない。だから、こうするしか生きる方法はないんだ。
あたしは死んだハツカネズミの壜を手から落とした。胎児のようなハツカネズミは、砂の上で跳ね返って転がった。自分を抱き締めたあたしは、いつまでも泣いた。マレクが死んで、何の反応を見せなくなっても。
あたし自身の死は、きっと気の遠くなるほど遥か先にある。
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