7 綿毛
気がつくと、家にいた。台所の粗末な椅子に座り、ぼくは重たい体に一切力を入れず、ぼんやり植物図鑑を見ていた。植物図鑑は、平面の映像に触れると次々とページがめくれていく。
彼岸花は地獄花とも呼ばれ、華やかな見た目だが日本列島では不吉な花として忌避されていた。
ラベンダーは香りが強く、コモンラベンダーの精油は様々な体の不調を癒す民間医療薬として用いられていた。
トリカブトは毒草で、成分のアコニチンは心臓発作を引き起こす強い毒性があるが、解熱剤や鎮痛剤として使われる時期もあった。
ケシには阿片や覚醒剤に用いられる麻薬成分を作り出すものがあり、世界的に栽培が禁じられていた。
タンポポは繁殖力が強く、多くの地域で見られた。生命力も強いため、アスファルトの地面を割って生えることもあった。
全て過去形。ここまで言い切られると、ぼくが考えていることのほうが嘘なのではないかと思えてくる。ケネス、お前は嘘を言いふらしたんだろう?
ケネスはもうスクールに行かないのだろうか。スクールの外で、そのまま大人になるのだろうか。そのまま、生きていくのだろうか。そんなことは、可能なのだろうか。
ぼくはまだ、わからない。自分がどうするべきなのかなんて、もうわからない。
「ああ、もう帰ってたの」
母の声がしたので振り返ると、両親が立っていた。どうやらもう五時過ぎになっていたようだ。ぼくはまた、下を向く。
「返事くらいしなさい、トウジ」
父の厳しい声に対して、ぼくは小さな声で訊いた。
「刑務所って、本当?」
しんとなる。静かだ。両親の身じろぎの気配すらしない。
「おれたち、閉じ込められてるの?」
「トウジ」
父が説明しようと両手を少し上げ、諦めたように下ろした。
「おれたち、一生外に出られないの?」
「誰から聞いたの?」
母が訊くが、ぼくは無視した。父が母に言う。
「どうせ昨日のことは子供たちにも広まってるさ」
母は下を向いたままのぼくの前に回りこむ。
「トウジ」
「何?」
「子供には過酷だから、しばらく嘘を教えることになってたの。でも、それももう終わりね。ここは刑務所よ。他の何でもない」
母の目は、いつになく真っ直ぐだった。
「あなたはただ、覚悟するしかない」
一体何を? それに、ひどくつまらない、ひどく意味を感じない言葉だ。ぼくはまた、下を向いた。
両親は互いを見、自室へと向かった。きっとぼくについて話し合いをするのだ。
つまらないな、ともう一度思った。
*
ただスクールに通った。もう勉強には何の希望も感じられない。ただこなすだけだ。身が入っていないので、教師に叱られた。けれどぼくは何とも思わなかった。叱られようと、成績が下がろうと、落ち込む理由はどこにもなかった。ぼくを落ち込ませているのは、単純にぼくのいる世界そのものだった。
ケネスは宣言どおりスクールへ来なかった。どこかの廃墟に集まって、ろくでもない遊びでもしているのだろう。さすがにあの空き地には行かないだろうと思う。あそこにはまだ大人が二、三人いて、見張られているから。毎回あの日の二人のように不真面目な大人がいるとは思えない。
ただ、あの飛行機がこのドームに存在するということが頭に巣食っていて、邪魔で仕方がない。ぼくがここで「覚悟をする」には邪魔な存在だとしか思えない。大人たちは何をぐずぐずしているのだろう。外部の人間とやらも、飛行機を処理したほうがいいと思わないのだろうか。
ぼくは毎日イライラしている。顔をしかめ、教師のほうを見ない。教師はぼくが机を指先で叩くのをちらりと見ては無視する。嘘を教えるのは虚しい仕事だろう、と歴史教師に目で語りかける。教師は、いいや、楽しくて仕方がないよ、お前たちのような無知な子供を騙すのはね、とぼくの頭の中で満面の笑みを浮かべた。
リリーは相変わらず真面目だ。もしかしたら、まだ知らないのかもしれない。授業はちゃんと出るし、成績もいい。教師のほうをじっと見つめ、時々視線を机に落とし、水鳥の映像を机に映し、ため息をつく。全く変化がなく、彼女だけが違う世界に生きているみたいだ。
歴史の授業は、ぼくらに確認を取るようなタイミングで行われていた。お前たち、世界は汚染されたままなんだ。空気も水も汚くて、お前たちが外に出るのは無理なんだ。そういう設定だってことを、ようく脳みそに刻んでおくんだよ。そう言われているかのようだった。真剣に聞いている生徒は、以前にも増して少ない。当然だろう。ケネスのクラスは生徒がまばららしい。ぼくのクラスは少しましだ。ましだ、と考えて、別によくも悪くもない、と打ち消す。
「この映像を見なさい」
教師は顔のえぐれたアフリカゾウの写真画像が字幕と共に流れる映像を見せた。真っ赤な肉が顔そのものになってしまったゾウの写真は、一部の生徒が息を呑むのには充分だった。
「われわれ人類は、生活のため、利益のためとして多くの動物を殺した。ワシントン条約で守られていたはずの動物も、全て絶滅してしまった。植物も、同様。外の世界を作ったのはわたしたち自身なのだ」
でも、あの空は? あの星空は何を表してるんだ?
「多くの植物は人間により持ち込まれた外の世界の植物に駆逐されてしまった」
だから? 何が言いたいんだ?
「人類が取るべき道は、滅び去ること。そう考える自然保護活動家も――」
呼吸が苦しくなる。
「人類が生み出した改良品種の植物は――」
浅く息を吸う。
「DNAを操作した動物や植物が野生のそれらと交雑し――」
浅く吐く。
「人類とは罪深い種族であり、それを認識しつつ――」
「あの、先生。具合が悪いので医務室に行ってもいいですか」
ぼくは立ち上がって奇妙な呼吸をしながら言った。周囲の生徒が珍しそうに、それでもどこか無関心な目で、ぼくを見ている。呼吸のおかしいぼくを。歴史教師は無表情に黙り、一瞬のちに、
「行きなさい」
と言った。
医務室に着くと、ぼくは医師の顔を見ずに灰色のベッドに寝転んだ。医務室の医師というのは、基本的に何もしてくれない。ただいるだけだ。今となっては医師が外の人間なのかもしれない、と思うこともあるが、その汚いシャツとズボンを見るに、きっとぼくらの仲間だ。
寝つけないまま休み時間になり、このまま一日治らないのかと思っていると、リリーが来た。ぼくは少し煩わしく思いながら、ベッドから降りた。呼吸はやはりおかしい。ぼくは、誰にもこのことを知られたくなかったのに。
リリーは微笑んでぼくに言った。
「先生、いなくなったから大丈夫」
「そう」
「トウジ、ここが刑務所だって知ったんだね」
「うん」
何だ、リリーは知っていたのか、と少し安堵する。リリーはまだ微笑んでいる。
「わたしもこの間知った」
リリーは、「だから辛い」「だから悲しい」などとは続けず、それだけ言った。
「トウジは処刑されないよ。大丈夫」
どういう意味だろう。リリーをじっと見つめ、眉をひそめる。
「トウジは、大丈夫」
「どういうこと?」
「わたしは、大丈夫じゃない。多分何年かしたら処刑される」
リリーが少し寂しそうな顔でそう言い、ぼくは目を見開いて彼女を見つめた。どうして? と心の中で叫んだまま、訊けない。
「わたし、何年か前から目が悪いんだ。視力が下がってるのかと思ってた。勉強、しすぎだからね。でも、違った。角膜に異常が起きてて、移植手術をしなければならないって、センターの医師から言われた。移植手術をするための施設は、ここにはないとも言われた。わたしはもうセンターから見捨てられたんだ。ルイみたいにね」
ぼくは唇を湿らせ、何かを言おうとした。けれど何も言えない。
「でもね、わたし、諦めてない」
リリーが笑う。その笑顔に、ぼくは息を呑む。
「外に出て、青い空を見るっていうことを、諦めてない。何とかして、わたしは見る。それが、理由。わたしが勉強を頑張る理由」
ぼくはじわじわと泣きそうになり、目をぎゅっと閉じた。リリーの言う「理由」。ぼくと同じだ。ぼくとリリーは同じ夢を持っていたのだ。
「リリー」
「何?」
「見せたいものがある」
ぼくは小さく笑った。呼吸はいくらか自然になっていた。リリーが不思議そうな顔をし、うなずいた。ぼくはベッドから降りた。授業などどうでもよかった。けれど決心がぼくを動かした。ぼくは一日をまたこなすことができた。
リリーと一緒の帰り道、ぼくはリングでケネスを呼び出した。灰色の街並みの、薄汚れた道の真ん中で、ケネスが赤い髪を迷路の中の目印のようにして待っていた。リリーに憎まれ口を叩く余裕さえない顔だ。
「どうした」
とケネスが訊くのを、ぼくは微笑して抑えた。彼はつまらなそうに舌打ちをする。ぼくとリリーが二人で歩き出すと、ケネスはまた舌打ちをする。誰も咎めなかった。ぼくらにとって、それぞれの「自然」を放っておくことが正しい気がした。
ぼくが二人を連れてきたのは、人気のないドームの端だった。壁と地面の間を、懸命に探す。見つけたのはリリーだった。
「見て、トウジ、ケネス」
そこにあったのは、綿帽子を被ったタンポポだった。リリーが駆け寄る。ケネスを見ると、目を丸くしている。ぼく自身驚いていた。タンポポの綿毛なんて、初めて見た。触ると、ふわふわと柔らかい。おっかなびっくり、三人で触る。
「すごい」
ケネスも興奮していた。
「この間、見つけたんだ」
ぼくが言うと、リリーは、
「きれいだね」
と笑った。それを見ていると、不意に思いつくことがあった。
「吹き飛ばしてみる?」
と訊くと、彼女は怯えた顔をする。ぼくはおかしくなりながら説明した。
「昔の人は、この綿毛を吹き飛ばしたんだよ」
「本当?」
リリーだけでなく、ケネスも興味津々だ。
「おれが吹く!」
と身を乗り出すので、ぼくは慌ててタンポポを摘み、リリーに渡した。綿毛がいくつかほろりと落ち、ぼくらが起こす風に乗る。
「やっていいよ」
不満そうなケネスをよそに、リリーは嬉しそうに唇をとがらせ、空気を吸い込む。
「思い切り吹けよ」
ケネスの声を合図に、リリーは息を吹きかけた。途端に、タンポポの綿毛は空中に散った。空気の流れをうまく掴み、灰色の街を、遠くまで、遥か遠くまで飛んでいく。漏斗状の街を進み、分散し、それぞれの道へ――。
ぼくたち三人は、いつまでもそれを見つめていた。
「親父が撒いてるのは、消毒剤だけじゃないんだ」
帰り道、ケネスがすっきりした顔で言った。ぼくとリリーは落ち着いた気分でそれを聞いていた。
「除草剤。植物の根はドームの寿命を縮めるからって。それなのにタンポポが生えてたんだぜ。すごくないか」
ケネスの明るい顔を、久しぶりに見る。
「ルイに見せたかったな。きっと大興奮だぜ。植物図鑑を何度も見て、大きさを測って、組成物を調べて……。体に悪いくらい喜ぶかも」
「そうだな」
ぼくは思いを馳せる。ルイはきっとそうしただろう。
「わたしね」リリーが意を決したように言葉を発した。「ルイがいなくなったとき、実はほっとしたの」
ケネスが怪訝な顔をした。リリーは、ケネスを見ないようにしていた。彼の普段からのルイの思い出に対する態度を見れば、そうするのも当然に思える。
「ルイはわたしに特別な人間であるように言った。わたしは本当に普通なのに。それが重荷で、辛かった。だからほっとしたの。――でも、わたしは、ルイのことが本当に好きで――」
リリーはほろりと涙をこぼした。
「そんな自分が嫌だった。ケネスみたいに振舞うのが当然だって思うのに。でも、そうだね。わたしも真っ先に『ルイに見せたかった』って思ったの。ケネスの言葉でようやく気持ちが可視化された気がする。わたし、ルイと青い空の下に立ちたかったの。だからあんなにガリ勉しちゃうんだろうな」
ケネスは黙っていた。ぼくも、黙っていた。リリーはつぶやく。
「あの綿毛、この街に根づくかな……」
ぼくとケネスはリリーが見つめる漏斗状の街を、目に焼きつけた。
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