5-4、その想いは名も無き

 

「なんだ、ここは……?」


 おれは怪物の体内に入ったのだから、狭い肉の中を無理やり進んで行くものだと思っていた。だが、おれが今いるのは窮屈感が全くない暗黒の空間だ。

 上を見ても、下を見ても、右を向いても、左を向いても、闇、闇、闇……自分がどこに立っているのかもわからない。


 ふと冷たい感覚を感じたので頬を触ると、涙が流れていた。目にゴミが入ったわけでもないのに、勝手に目から涙が落ちていく。

 おれは自分の心に悲しみの感情がどんどん侵入してきていることに気がついた。この暗黒の空間には、悲嘆が充満している。


 悲しい

 悲しい

 悲しい……!

 意味もなく、理由もなく、おれは悲嘆に暮れていった。


「くそっ! 勝手に入ってくるな。勝手におれの心に悲しみを押し付けてくるんじゃねえ!」


 おれは自分の心を守るように体を抱え、涙を流しながら叫んだ。

 そうだ、ここは悲嘆の怪物の体の中なのだ。やつの体は悲嘆の感情でできている。その内部に入るということは、悲しみの沼の中に沈んでいくのと同じことなのだ。


 悲しみに耐えられなくなり膝をつきかけた時、おれは近くから光を感じた。顔を上げると、そこには長い水色の髪の少女が立っていた。

 おれはその少女を知っている。

 街でおれに五月女王メイクインの花冠を手渡してくれた女の子だ。


「君は確か、サフィアか……?」


 おれが尋ねると、少女は小さく頷いた。

 サフィアは宿の主人が話してくれた、この島の伝承に登場する少女だ。ある一人の少年に恋をした双子の姉妹の姉で、すれ違いから自殺した妹ブレアの後を追って、自らも命を絶っている。そしてブレアが悲嘆の魔女と化した一方で、サフィアは島を守る豊穣の女神となった。


 不思議とサフィアの近くにいると、悲しみが和らいでくる。なぜ彼女がここにいるのか疑問に思ったが、深くは考えないことにした。

 おれは涙を拭うと、彼女に向けて笑顔を浮かべる。


「ありがとう、サフィア。君のおかげで悲しくなくなったよ」


 おれがそう言うと、サフィアは笑みを返してきた。

 彼女はおれに近づくと、手に持っていたものを差し出してくる。それは以前、おれに渡してきたものと全く同じ五月女王メイクインの花冠だった。


「ま、待ってくれ。おれはここでやらなきゃいけないことがあるんだ。今は余計なものを受け取ることはできない」


 おれは手を広げて首を横に振る。

 おれはこれから、この空間にいるであろうイリスを探し、そして救い出さなくてはならないのだ。戦いになることも予想できる。なるべく両手は空けておいた方がいい。

 サフィアは尚も食い下がってきたが、おれに受け取る意思がないことがわかったからか、花冠を下げて悲しそうにうなだれた。


「あ、あのさ、おれの用事が終わったでいいなら君に付き合うよ。それでもいいかな?」


 彼女があんまりにも悲しそうだったので、おれはしゃがんで目線を合わせて提案した。サフィアは少し考えた後に、笑顔になって頷いた。

 おれはサフィアと一緒に暗闇の空間を歩き、イリスを探した。

 一体ここはどれだけの広さがあるのだろうか。歩いても歩いても、どこにも行きあたらない。焦りばかりが先行するが、恐怖を感じないのは隣にサフィアがいるからだろうか。


「……それでな、その子はいっつもお腹すいたお腹すいたってうるさいんだ。君より少し大きいくらいの体なのに、大の大人三人分くらいの料理をペロリと平らげちまう」


 おれは歩きながら、イリスとの思い出をサフィアに聞かせていた。気を紛らわせるためでもあるが、探している少女がどんな子なのかを知ってもらいたかったのだ。

 サフィアはおれの顔を見上げ、興味深そうに話を聞いてくれている。


「大きな鎌を振り回してさ、最初は恐かったんだ。ずっと無表情で、何を考えてるかわからなかったし。だけど、あの子はただ感情を表に出すことが苦手なだけで、本当は色んなことを考えているんだってわかってからは、なんだか身近な存在に思えてきたな」


 いつからか、自分の中でイリスの存在が大きなものになっていった。

 笑ってくれたら嬉しかったし、悩んでいる時は力になりたいと思った。あの子のことを考えて料理をしている時は、心が緩んで温かくなった。


「……あなたは、その子のことが好きなの?」


 突然サフィアが口を開いた。喋ることができないと思っていたので驚いたが、それ以上に彼女が言った内容に対して動揺する。


「そ、そういうのじゃないさ……! ただ、仲間として大切に思ってるだけだよ」


 そう弁解するおれの顔は、端からみたら赤くなっていたと思う。


「会いたい、ずっとそばにいたいという気持ち?」


「そう……だな。それが一番近いと思う」


「世間一般では、その気持ちを恋と呼びます」


 サフィアがぴしゃりと言った。

 黙っている時間も長かったが、一度口を開いたら流れるように言葉を紡ぐ少女だ。おれはそれ以上反論のしようがなかった。


 恋。

 恋か。


 自分がそんな気持ちを抱くなんて考えたこともなかったから、実感が湧かない。

 例えば、レンも魅力的な女の子だが、おれが彼女に抱いている気持ちは完全に尊敬だ。クローディアもしかり、おれの周りには優秀な女性ばかりいたのでずっと自分を下の存在に考えていた。


 では、イリスは?

 彼女のことも遠い存在だと思っていた。だけど人柄や性格、抱えた事情を知るごとに、隣に立ちたいって思うようになったんだ。自分より優れた人を見たらすぐにへり下ってしまうおれが、初めて得た気持ちだった。

 隣に立ちたい。あの子のことを支えたい。

 それはサフィアが言うような会いたい、ずっとそばにいたいと言う気持ちと同じものなのだろうか。おれが抱える想いには、まだ名前がない。


「……その気持ちを、大切にしてね」


 サフィアがおれの考えていることを見透かしたように言った。その顔は、少しだけ寂しそうに見えた。

 どこまで行っても暗闇が続く空間の中で、異常なものを発見したのはその直後だった。


 そこには赤い、血でできたような色の糸が縦横無尽に張り巡らされていた。まるで不出来な蜘蛛の巣の中に迷いこんだようだ。

 その中心。蜘蛛の巣に捕らわれた獲物のように、何かが無数の糸によって縛られ空中に吊るされていた。


「イリス!!!!」


 おれはその姿を見た瞬間、思わず叫んでいた。

 思い焦がれた少女は、四肢や体を血の糸で縛られ、自由を奪われた状態で眠るように目を閉じていた。

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