2-3、見えない怪物
「ここが、ニシンのお姉さんが言っていた加工場か」
港のそばの木造の建物を見上げる。
おれたちは昼食を食べた後に、ニシン売りの女性に教えてもらった加工場を訪れていた。二階建ての大きな建物だ。
「すごい匂い」
中に入ると、強烈な匂いが鼻を襲った。イリスが顔をしかめてフードで顔を覆う。
「これは燻したニシンの匂いだな」
「燻したニシン?」
「そう。木を燃やした時に出る煙をニシンに当てて加工するんだ。燻製させれば風味が生まれて、保存もきく。ただ、匂いが少々きつくなる」
塩漬けや燻製に加工することで日持ちするようになり、ニシンを遠方まで出荷できるようになった。それがこの街が発展した大きな理由の一つだ。なので、こうした加工場は街のあちこちにある。
加工場では大勢の人間が忙しく動いていた。樽を肩に担いで運ぶ者や、塩漬けしたニシンを水で洗う者、燻している炎の管理をしている者たちがいる。この匂いは慣れっこなのか、皆平気そうな顔だ。
燻製ニシンはその強烈な匂いのため、何かの例え話に使われていたと聞いたことがある。そういえば、あれはなんの話だっただろうか。
「おう、何の用だニイちゃん」
出入り口近くにいた大柄な男が、ムスッと不機嫌そうな顔で話しかけてきた。びびったおれは及び腰になりながら、何とか返答する。
「あの、えーっと、この加工場の人が冒険者を集めていると聞いたんですが……」
「あぁ。その件なら親方に会って話をしてくれ。この加工場の隣の小屋にいるはずだ」
大柄な男は不機嫌そうな表情のまま、おそらく小屋があるであろう方向を指差した。いかつい顔の人にきちんと対応してもらうと、すぐにいい人だと感じてしまうのはなぜだろうか。
隣の小屋は作業場とは分けられているようだった。扉を開けて中に入ると、正面に机と椅子があり、そこにいかにも海で生きてきたと言うような強面の男が座っている。
小屋の中には、男の付き人らしき若い男性と、武器を持った冒険者らしき人間が数人いる。
「なんだ? 張り紙でも見て来たのか? なんにせよ、飛び込みも大歓迎だ。何しろ冒険者の手はいくらあっても足りねえからな」
おれたちが小屋の中に入ると、強面の男が大きく身振り手振りを交えながら出迎えた。
どうやらここにいるのは、
「ちょうどよかった。これから説明をするところだ。まずオレから名乗らせてもらおう。オレはシギ=ウォルトン。加工場の頭領をやっている。ガキの頃からニシンを食って育って来た、根っからのメーアローグ人だ」
強面の男——シギが潮風で掠れたような声で名乗った。
「見ての通り、ここは美しさと活気を併せ持った最高の街だ。だが、この街の秩序と平穏を荒らす不貞な奴が現れやがった。確認されているだけでも、そいつに五人が殺されている。その内三人がウチの加工場のモンだ」
「……それは、怪物がこの街に現れたということでしょうか?」
長剣を腰に差した、身なりのいい冒険者の青年が手を挙げて質問する。
「大方の見方はそうだが、そうでないかもしれない。なぜなら、誰も殺した奴の姿を見ていなかったからだ」
おれは塩漬けニシン売りの女性が話していた「見えない怪物」という言葉を思い出す。五人も殺されているのに誰もその姿を見ていないということがありうるのだろうか?
「だが昨日、ついに怪物の姿を見た奴が現れた。それがここにいるモーリーだ。ウチの加工場で丁稚をしている。おい、モーリー。昨日見たことを話してやれ!」
シギに水を向けられ、少年のようなあどけなさを残した痩せ気味の青年モーリーが姿勢を正した。
「は、はい、親方! えーっと……昨日はぼくが見回りの当番で、先輩のマゴスさんと一緒に加工場の周辺を警備していました」
こんな状況なのに、自分たちで警備をしなければならないのかと哀れを覚える。
「ぼくが少し休憩している時にマゴスさんの悲鳴が聞こえました。急いで駆けつけたら、マゴスさんは、その……血だらけで、すでに事切れたようでした。その時に見たんです。背中にヒレのようなものがついたヌメヌメした体の何かが、両足で走って闇の中に消えていくのを」
モーリーは自信無さげにしどろもどろになりながら言った。
おれは今の話で、モーリーという青年を見直した。何しろすごくビクビクしていて気が弱そうなのに、悲鳴が聞こえた時にすぐ現場に駆けつけたのだから。おれだったら、まだ怪物がいるんじゃないかビビって動くこともできなかっただろう。
「こいつの話を総括するとだ、下手人は
実際に戦ったことはないが、その脅威はよく冒険者の間で耳にする話だ。
だがしかし、
「話には続きがある。
「ならば、私たちの役割は地下水道に潜んでいると思われる
身なりのいい長剣使いが話をまとめる。
「そういうことだ。一度明るいうちに地下水道を案内するが、奴が現れるのは決まって夜だ。暗闇の中での戦いに備えてくれ。報酬は日当でマグヌ銀貨二枚。討伐したら金貨五枚をやろう。異論はあるか?」
シギが冒険者たちを見渡して言った。
「あのー、この
おれは手を挙げておどおどしながら尋ねる。シギは鼻を鳴らして答えた。
「もちろん、先に申請に行ったさ。だが、相手が怪物かどうかわからないならまず街の憲兵に相談しろと突っぱねられたのさ。だがなあ、憲兵ってのは巡回をして目の前で揉め事があれば対応するが、潜んでいる怪物を探すことはしない。オレたちはすぐ近くに迫っている恐怖に怯えているってのにな。だから、ここらの住民で金を出し合って、独自で
本当は、
だが、多くの冒険者が集まっている前で公言したのだから、報酬が減らされることはないだろう。信用してみてもいいのかもしれない。
「他に質問はあるか? なければ、参加する奴はこの書類に名前と簡単な経歴、扱う武器を書き込んでいってくれ。その後にモーリーに地下水道を案内させる」
シギが
「どうする、イリス? 討伐報酬がもらえたら、しばらく生活には困らないが」
おれは隣に立つイリスを見る。イリスは注意深く小屋の中を観察しているようだった。一体何を見ているのだろうか。おれの声に気がついて、顔を上げる。
「ラッドくんにお任せします。いえ、少し気になることがあるのでわたしは参加したいです」
「そうか。じゃあ契約書を書いてくるよ。何か特記事項はあるか? これまでの経歴とか」
おれが聞くと、イリスはふるふると首を横に振る。きっと彼女は過去に
おれは契約書に二人分の名前を書き込んでいく。扱う武器の欄には「
手続きが終わって、おれたちは小屋を出た。青空の下、大きく伸びをする。
「そういや、さっき言っていた気になることってなんなんだ?」
おれが尋ねると、イリスは突然背中の大鎌を抜いて刃をおれの前に突きつけた。急なことだったので、おれは恐怖で跳び上がる。
「見てください。ファンタズマが怯えています」
イリスの言葉に、おれは恐る恐る自分に突きつけられた大鎌ファンタズマを見る。生きた大鎌は、よく見れば小さく振動していた。まるで恐怖で震えているかのように。
「この子は恐がりなので、強い気配を感じるとこうして震えてしまいます。あの場にいた誰かに反応したのか、あるいは見えない怪物は思いもよらない場所に潜んでいるのかもしれません」
イリスが無表情で淡々と喋る話に、おれは背筋が冷えていく。
空は晴れて、海は輝いている。街は明るく、そこで働く人々も活気付いている。しかし、すぐ足元には闇が広がっている。そんな心地がした。
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