2-2、海は青、街はオレンジ、魚はニシン
* * *
駆け下りていく勢いで山を下ると、すぐに街道に出た。
商隊が通りかかったのか、荷物を積んだ幌馬車が複数台列をなして進んでいる。商隊の周りでは、武器を持った四人の冒険者が警護に当たっている。護衛の
商隊についていくように街道を歩いていると、視界が開けた。下り坂の向こうにはオレンジ色のレンガの街並みが広がっていて、そのさらに向こうには真っ青な海がどこまでも続いている。
「わあ」
イリスが立ち止まり、目を大きく見開いた。
その反応はまるで、初めて海を見た子供のようだ。
「海に来るのは初めてなんか?」
「ううん。前に一度来たことがあります。だけど、その時見た海よりずっと綺麗です。青くて、澄んでいて、そして輝いている」
イリスの表情の変化は分かりにくいが、きっと感動しているのだろう。じっと目の前に広がる鮮やかで雄大な景色を眺めていた。
ちょうど昼時だからか、漁に出ていたらしい船が次々と港に戻って来ている。海上には船の通った後に白い波の軌跡が残っていた。
「あの街がアートメート?」
「メーアローグな。元は小さな漁村だったらしいが、発展して今の規模になっている。見ての通り運河が張り巡らされていて、それを中心に街が作られているんだ」
上から見下ろすと、メーアローグの構造がよくわかる。街には運河が円を描くように流れており、その周りに建物が密集している。その建物がどれも鮮やかなオレンジ色をしているのは、一帯は雨が少ないため素焼きレンガが好んで使われいるからだと聞いたことがある。
「ラッドくん、そろそろ街に行きましょう。なぜなら——」
「お腹がすいた、だろ?」
おれが先回りして言うと、イリスは驚いた様子で後ずさった。
「なぜ、わかったのですか……?」
いや、さすがにわかるわ。
街に入るための検問はすんなり終わった。
大鎌を背負ってフードを目深に被ったイリスの怪しい風貌ならば、かなり長い時間詰問されると思ったのだが、冒険者であることを伝えるといくつか質問をされてすぐに通された。冒険者は一風変わったやつが多いだからだろうか。
運河の上に架けられた石橋を渡って街中に入る。門の近くは広場のようになっていて、屋台や荷馬車が立ち並びなかなかの賑わいを見せている。昼飯を求める住民や旅人がその周りでたむろしていた。
「これだけ屋台があるなら、あれも売っているかな」
周囲を見渡すと、すぐに目当ての屋台を見つけた。
おれは屋台に近づくと、店番をしている女性に声を掛ける。くしゃくしゃの赤毛が特徴の活発そうな若い女性だ。
「やぁ、ここに世界一おいしい食べ物があると聞いたんだが」
おれの言葉にイリスが反応して顔を上げた。屋台の女性は慣れたようにすぐさま返答してくる。
「それはメーアローグのニシンさ。さぁ、何匹買ってくれるんだい?」
「二匹くれ。連れにまずは味見をさせたいんでね」
屋台の木箱には頭が取り除かれたニシンがたっぷり詰められていた。その上には刻んだ玉ねぎが振りかけられている。女性はそこから二匹掴むと皿に乗せて手渡して来た。おれはその皿と交換で、銅貨を数枚屋台の上に置く。
「ニシンはここで食べちゃって、皿は返しておくれよ」
「あいよ」
おれたちが屋台から離れると、すぐに別の客がやって来て女性と軽く言葉を交わしてニシンを購入していた。
「ラッドくん。これが世界一おいしい食べ物ですか?」
イリスは訝しそうに皿の上の魚を見る。
「はははっ。それは人によりけりだな。だけど、メーアローグの人たちの多くは本気でそう考えている。こいつはニシンの塩漬けだ。獲れたばかりのニシンを頭と内臓、小骨を取り除いて一日塩に漬ける。次の日に取り出してしっかり塩を落として食べるんだ」
見た目はほとんど生魚に近い。魚を生で食べる機会はそうそうないため、初めて見た人は敬遠してしまう。おれも以前一度この街に来た時は抵抗があった。
「メーアローグは『ニシンの骨の上にできた街』とも言われていてな。ニシン漁で小さな漁村から今の姿に発展したんだ。だからこの時期になると街はニシンの料理で溢れかえるんだ」
「ラッドくんが昨日話していた、この季節によく獲れる魚はニシンのことだったんですね」
イリスがニシンの塩漬けをじっと見ながら言った。
「そう。ニシンは春告魚って別名があって、暖かくなるとよく獲れるようになるんだ。産卵のために浅瀬にやってくるからな。特に初夏に差し掛かったあたりのニシンは脂が一番乗っていてうまいと言われている」
「へえ」
「旬のニシンをそのまま味わえる塩漬けはメーアローグの人たちの大好物なんだ。だから世界一おいしい食べ物は何かこの街の人に尋ねると、必ずこの料理だって言うわけさ」
世界一おいしいなんて感覚は結局個人次第だ。もしも悪魔がメーアローグの人に同じ呪いをかけていたなら、すぐに解かれていたに違いない。
いや、待てよ——とおれは考える。
本当に味だけで世界一おいしいと思っている人はこのメーアローグにどれくらいいるのだろう。その言葉には、ニシンで栄えた街を誇る気持ちが多分に含まれている。幼い頃から慣れ親しんだ料理だからという理由もあるだろう。
つまり、この場合の「世界一おいしい」には味よりも思い入れが強く影響しているのではないだろうか。
その線で考えると、イリスにとっての「世界一おいしい食べ物」とは小さな頃に食べた料理や、特別思い入れのある食事が当てはまるのではないだろうか。
おれはイリスの過去を知らない。もし本当に彼女の呪いを解きたいと思うならば、過去の記憶について尋ねる必要があるかもしれない。
「ラッドくん。これはどうやって食べるんですか。食器が付いていません」
イリスの声で、おれは我に返った。
「あ、ああ……こいつは食べ方にコツがあるんだよ。まず尻尾を持って、顔より上にあげる。そして頭の方から食べるんだ」
おれは刻み玉ねぎが乗ったニシンの尻尾を掴むと、上に持ち上げる。顔を上げてそのままニシンにかぶり付いた。
食感は柔らかく、骨が取り除いてあるため気兼ねなしに咀嚼することができる。焼いた魚では感じられない素材そのままの味が口の中で広がっていく。多少生臭くはあるが、程よい塩加減と玉ねぎの風味でうまく中和されている。
おれが一匹食べ終わっても、イリスはまだ火を通していない魚を食べることに抵抗を感じているようだった。おれの顔とニシンの塩漬けの間で何度も視線を行き来させている。
おれはもう一匹の尻尾を掴むと、イリスの顔の上に持って来た。イリスは揺れるニシンをじっと見ていたが、意を決してぱくっと食いついた。なんだか餌付けをしているみたいだな。
「どうだ?」
イリスはしばらく口の中のニシンを噛んでいた。飲み込んでから、何も言わず口を開ける。どうやらまた食べさせろということらしい。おれが半分ほど残ったニシンをもう一度顔の上に持っていくと、残りを全部食べてしまった。
「思ったより食べやすかったです。もっと嫌な味がするものかと」
食べ終わったイリスが表情を変えずに言った。
感想が食べやすい、と言うことはおいしいには届かなかったらしい。まぁ、慣れが必要な食べ物ではあるからな。
「まだ腹が減ってるだろ。海鮮料理を出す食堂にでも入ろうか」
「そうします!」
イリスが途端に元気になった。
食事もいいが、なるべく安い宿を探しに行かなければならないし、早めに
皿を返しに屋台に戻ると、赤毛の女性がじっとおれたちを見ながら尋ねてきた。
「あんたたちは冒険者さんかい?」
「ああ、そうだ。だけど、それがどうしたんだ」
そう答えると、女性はホッとしたような笑顔を浮かべた。
「それは良かった。実はここのところ、この街で物騒なことが続いていてさ。加工場の人が冒険者を探しているんだ。話だけでも聴きに行ってもらえないかな」
「物騒なこと?」
聞き返すと、女性は声を潜めて重々しそうに言った。
「そう。次々と人が殺されているんだよ。見えない怪物の手にかかってね——」
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