1-9、邪魔、邪魔、邪魔

 

 怪物の爪から解放されたレンが、近くに落としていた槍を拾ってその場を脱出する。

 巨神狼フェンリルは顔を抑えてしばらく呻いていた。左目に刺さったおれの剣を引き抜くと、握力でへし折る。爪の隙間から刃の破片が溢れていった。

 なけなしの金で買って、今まで使い続けてきた思い入れのある剣だが惜しくはない。今まで怪物に立ち向かえもしなかったおれが、強大な巨神狼フェンリルに一矢報いることができたのだから。


「ラッド、早く逃げろ! あいつは君を狙っている!」


 足を引きずりながら走るレンが叫んでいる。何事かと思っていると、冷たい殺気を感じて全身が震え上がる。

 殺気を放っているのは巨神狼フェンリルだ。残った右目を爛々と光らせ、おれに敵意を向けている。当たり前か、おれの投げた剣が片目を奪ったのだから。


 やばい。これはどうしようもない。

 おれの唯一の武器は投げてしまって手元にないし、仮にあったとしても接近戦で敵う相手ではない。逃げようとしたが、足が震えて動かない。完全に殺気に飲み込まれてしまっている。


 それだけではない。後ろから何かが近づいているのを感じる。巨神狼フェンリルにも負けない恐ろしい気配だ。

 一体何なんだ、このとんでもない気配は……!?


「ラッドくん。やっと見つけました」


 背後から迫っていた恐ろしい気配の正体が、おれの目の前にひょっこり顔を出した。

 イリスだ。

 背中に大鎌を担いでフードを目深に被った死神少女がのんびりした口調でおれに話しかける。緊迫した戦場の空気などまるで感じないようだ。


「ラッドくん、リンゴだけではとても足りません。お腹がすいた」


 どことなく非難がましい響きでイリスが抗議する。もはや何度聞いたかわからない口癖「お腹がすいた」も忘れずに添えて。


「あ、ああ、それは悪かった。だけど、今も取り込み中で……飯を用意する時間がないんだ」


「取り込み中?」


 首を傾げるイリスの向こうで、巨神狼フェンリルが疾走を始めた。巨体の狼は四足でまっすぐこちらに向かってくる。


「イリス、後ろだ! 逃げろ!」


 おれが警告の声を出す間にも、迫る巨神狼フェンリルが爪を振り下ろす。だが、狼の爪はおれに届かなかった。巨大な鎌の峰がそれを受け止めている。


「ラッドくん、こいつが取り込み中の取り込みですか?」


 大鎌で軽々と巨神狼フェンリルの攻撃を防いだイリスが、おれの方を向いて尋ねてきた。


「そ、そうだっ。そいつが、えーっと……朝飯が作れない原因だ」


「それはいけない」


 イリスが大鎌を押し込み巨神狼フェンリルの爪を弾く。少女が飛び上がり、小柄な体が空中に舞う。

 そう。こんな時にこいつが言う、もう一つの口癖をおれは知っている——


「邪魔」


 上空から振り下ろされた鎌の刃が、巨神狼フェンリルの胸部を深々と斬り裂く。鮮血が吹き出し、草地を真っ赤に染めた。

 だが、巨神狼フェンリルは怯まない。口を大きく開けると、牙を光らせ落下中のイリスを喰らいにかかる。イリスは大鎌の峰で牙を弾き、少し離れた地面に着地した。

 距離を置き、相対する両者。


『グルルルルァアアアアアアアアア!!!!』


 イリスを明確な敵と認めた巨神狼フェンリルが最大の咆哮を上げる。


「うるさい犬は嫌いです」


 対して、イリスは面倒臭そうに呟いた。


 混沌時代の支配者の一角巨神狼フェンリル

 大鎌を振るう死神少女イリス。

 強者同士の激突が始まった。


 先に動き出したのはイリスだった。大鎌を引きずるように持ち、巨神狼フェンリルとの距離を詰めていく。

 下方から上方へ、三日月を描くように大鎌を振り上げる。

 巨神狼フェンリルはイリスの強さをよく理解したようだった。後方へ跳び、斬撃を回避する。自分の爪がギリギリ届く位置から腕を振るい、イリスに反撃を仕掛けた。

 いくらイリスがでかい鎌を振るおうとも、射程距離リーチは巨体の巨神狼フェンリルが圧倒的に広い。刃が届かない範囲から一方的に攻撃を仕掛けようとしているのだろう。


 イリスは本体には向かわない。自身に迫る爪に対して、少しも尻込みする様子を見せず大鎌で迎え撃つ。一瞬の交差の後、巨神狼フェンリルの指が三本、根元から切れて地面に転がる。

 巨神狼フェンリルが声にならない悲鳴を上げた。

 人間も小さな蜂に不用意に手を伸ばせば指を刺される。死神少女に手を出せば、その先は無事では済まない。


 このままイリスが圧倒するのかと考えたが、巨神狼フェンリルは戦意をまだ失っていなかった。両手を付き四足の状態になり、さらに後ろ足を曲げる。まるで衝撃に備えているかのようだ。

 巨神狼フェンリルの口がぱかっと開き、鋭い牙と黒い口内が覗く。


『グルルルァアアアアアアアアアアアアア!!!!』


 耳をつんざく大声量が巨神狼フェンリルの口から放たれる。声は衝撃波と化し、大気を振動させ大地を抉る。

 周囲で傍観していた冒険者たちは、余波を受けただけで木の葉のように吹き飛ぶ。おれも耐え切れず後ろに転がっていった。


 大咆哮ハウリング

 巨体を誇る怪物が声自身を武器にすると聞いたことがある。巨神狼フェンリルも奥の手としてこの攻撃を解禁したのだろう。イリスという敵を確実に葬るために。

 イリスは大鎌を地面に突き刺し、大咆哮ハウリングに耐えていた。刃が地面を切り裂きながら徐々に後退していく。さすがのイリスも、衝撃波の中では動けないらしい。


 何か投げるものはないだろうか。少しでも力になりたい。

 だが、おれの力では吹き飛ばされないように耐えているだけでも精一杯だ。たとえ立ち上がることができたとしてもこの衝撃波を突き破り巨神狼フェンリルに届かせることなんてできない。


「あ」


 衝撃に耐えられなくなったのか、イリスの手が大鎌から離れる。支えを失った小さな体は後ろに吹き飛ぶ。


「イリス!」


 おれは足に力を込めて跳び、イリスの体を受け止める。だが、それだけでは衝撃を殺し切れなかった。おれはイリスの体ごと押し込まれる。何かが背中に当たってようやく止まった。


「大丈夫!? ラッド、イリスちゃん!」


 短槍を地面に突き刺したレンが、おれの背中を支えてくれていた。

 ここを勝機と見たか、巨神狼フェンリルが上空に跳び上がった。怪物の巨体はちょうどおれたちの真上に浮かび、頭を下にして口を大きく開ける。

 間違いない、巨神狼フェンリル大咆哮ハウリングを放とうとしているのだ。

 真上からさっきのような衝撃波を受ければ、逃げ場のないおれたちは馬車に引かれた蛙みたいにぺしゃんこに潰されてしまう!


 イリスの大鎌は遠くの地面に突き刺さっている。とてもではないが、すぐに取りに行ける距離ではない。

 そうだ、イリスを投げるんだ。打開策を考えていたおれは閃いた。

 せめてこいつだけでも衝撃波の外に逃がすことができたなら勝機はある。その場合、おれとレンはまともに大咆哮ハウリングを受けてしまうことになるが仕方ない。

 おれたちは冒険者なんだ、温かいベッドの上で死ねるなんて考えちゃいないさ。なんて強がっても、本当は恐いけど!

 意を決してイリスを抱える手に力を込めると、死神少女は冷静に呟く。


「ラッドくんは情熱的です。こんなに強く、抱きしめてきて」


「え、いや、そんなつもりじゃ」


 おれは慌てて手を離してしまった。

 いや、おれは何をしているんだ。イリスを遠くへ投げないといけないのに、恥ずかしさが勝ってしまった。背中から感じるレンの視線がなんとなく冷たい。

 違うんだってば!


「大丈夫。おいで、ファンタズマ」


 イリスの声に反応し、なんと地面に刺さっていた大鎌が宙に浮かび、まるで生き物のようにくるくる回転しながら主人の元に戻ってきた。

 なんだこの鎌は! 生きてるのか!?


 武器を手にしたイリスは、頭上の巨神狼フェンリルを見上げた。怪物は口を広げ、今にも大咆哮ハウリングを放とうとしている。

 イリスは地を蹴ると、大鎌ファンタズマを引いて巨神狼フェンリルに肉迫する。巨神狼フェンリルが声を出すよりも一瞬早く、イリスは大鎌の刃を怪物の口内に突き刺した。


「邪魔、邪魔、邪魔」


 イリスが手に力を込めて体を回転させる。大鎌は巨神狼フェンリルの体を口から引き裂いていった。


『グォウ……ガ……グルァアア!』


 巨神狼フェンリルがこの世の苦痛を全て受けたかのような苦悶の唸り声を出す。死神イリスは容赦なく上から鎌を振り下ろし、怪物の命を一滴残らず奪っていった。


 戦場に文字通り血の雨が降り注ぐ。

 怪物の死骸と冒険者の骸が散らばるおぞましい大地の真ん中に降り立った少女は、血に濡れた大鎌を両手で玩びながら涼しげな顔で呟いた。


「お腹がすいた」

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