1-8、鼠の一撃

 

 圧倒的な力を見せる巨神狼フェンリル。だが、闇の中でももがき続ける者たちがいた。


「この化け物がァ!」


 四足状態のまま口の中の肉を咀嚼する巨神狼フェンリルの頭を、レンが短槍を振り抜き横から殴り付ける。

 強烈な打撃をもろに受け、巨神狼フェンリルが初めてよろめいた。


「こんちくしょう! もうどうにでもなりやがれ!」


 ひるんだ隙に、ゴートンが大斧を振り回して重い斬撃を怪物の腕に叩き込む。毛皮を切り裂き赤黒い血が滲む。矢でさえ完全に貫くことができなかった厚い毛皮の上から斬撃を通したのは、さすがの膂力だ。


『ウルルルッ!』


 巨神狼フェンリルが短く呻き、金色の瞳が細くなった。まるで、ここからが本番だとでもあざ笑うかのように。

 立ち上がった巨神狼フェンリルは、まず足下のゴートンに向かって腕を振り下ろす。ゴートンは大斧でなんとか防御を間に合わせるが、掬い上げられ体が宙高く吹き飛んだ。背中から地面に叩きつけられ、息が漏れる。


「ま、またかよ……!」


 つい最近投げ飛ばされた記憶が蘇ったのか、ゴートンは苦しげな声で呻いた。立ち上がろうとするが、うまく呼吸ができずにもがいている。あれではしばらく戦線に戻るのは難しいだろう。

 次に巨神狼フェンリルはレンに目を向ける。巨大な爪が恐ろしい速さで振るわれたのを、レンは体を捻って紙一重で回避した。


 嵐のような攻撃は止まない。巨神狼フェンリルは獲物を追い詰めていく肉食獣のようにレンの周囲を跳び回り、四方八方から爪を突き出していく。レンは槍の柄で受けてなんとか猛攻を凌ぐが、徐々に追い詰められていった。


「まだまだっ!」


 レンは額から流れる血を拭い、荒い息で巨神狼フェンリルに立ち向かう。

 誰も彼女に加勢をしようとしない。

 冒険者たちは目の前で繰り広げられる凄惨で一方的な戦いを、ただ青い顔で見ているだけだった。


 なんでだ? なんで誰もレンを助けようとしないんだ?

 このままでは、彼女は確実に死ぬ。今はなんとか攻撃を防げているが、時間の問題だ。すぐに巨神狼フェンリルの爪はレンの体に届くだろう。

 誰か、誰か動いてくれ——そう願いながら周囲を見るが、誰も足を踏み出そうとする者はいない。みんな気づいたのだ、巨神狼フェンリルの次元が違う強さに。


 おれだってそうだ。

 おれだって、クソ情けない奴らの一員だ。震えて突っ立っているだけの臆病者だ。ラットと罵られようと、何も言い返せない。

 だけど、おれにできることなんか何一つない。怪物に近づくこともできないんだ。鼠が狼に敵う道理なんて、この世のどこを探してもありはしない。


「何が英雄になるだ……! なんもできやしないくせに!」


 そう呟いた時、脳裏にとある少女の声がよぎった。


『ラッドくんだけができることは、たくさんあります』


 昨晩、一緒に夜食を食べた時にイリスから告げられた言葉だ。何をやっても中途半端な自分を卑下したおれに、彼女は真面目な顔でサンドイッチを頬張りながら言った。

 なんでだ? なんでこんな時にあいつの言葉を思い出すんだ?


『確かに君は少しだけ人より臆病かもしれない。だけど、それだけ君が踏み出す一歩に価値はあるんだ』


 続いて聞こえてきたのは、今まさに目の前で戦っているレンの声だった。

 レンは戦場に出ることに尻込みしていたおれを勇気付けてくれた。彼女にはなんの徳もないはずなのに。

 なんでだ? なんでおれはこんなにもたくさんの言葉をもらって、ただ震えているだけなんだ?

 もしもこの一歩に価値があるのなら、願わくば誰かを助けるために使いたい。目の前で追い詰められている誰かを。


 自分の心を改めるように、おれは一つ大きく深呼吸した。

 考えろよ、おれ。何かができるはずだろう。ビビリで、弱くて、満足に剣も振るえない落ちこぼれのおれだけができる何かが!


「きゃあ!」


 レンの悲鳴が聞こえた。

 顔を上げると、巨神狼フェンリルがついにレンの体を捉えていた。怪物は爪を大地に食い込ませ、レンをその手の中に閉じ込める。


「このっ……放せっ! 放せぇぇぇぇぇ!!」


 レンはもがくが巨神狼フェンリルの手はびくともしない。怪物は嬉しそうに舌を出し、鋭利な牙を覗かせる。

 レンの声が聞こえた瞬間、おれは一歩を踏み出していた。

 恐怖が消えたわけじゃない。心はずっと震えたままだ。だけど体は動いてしまった。踏み出してしまった。


 どうせ巨神狼フェンリルはおれのことなんて見ちゃいない。何をやったってどうせ目もくれないだろ。

 おれが踏み出せるのはこの左足の一歩だけだ。踏み出した勢いのまま上半身を捻り、全ての力を込めて——


 何かを投げるのは昔から得意だった。石も、木の枝も、リンゴも、金槌も。剣を投げるのは初めてだが、きっとできる。そんな根拠のない確信だけはある。

 剣は地面と水平に回転しながら宙を飛ぶ。

 巨神狼フェンリルが飛んでくる物体に気づきレンから目を離したが、もう遅い。刃は吸い込まれるように怪物の左目に突き刺さった。


『ウルルルァアアアアア!!!!』


 巨神狼フェンリルが初めて痛みで悲鳴を上げた。毛皮は矢を通さないほどの硬度を誇るが、目だけは鍛えようがない。


 見たか


 見たか


「見たか、一撃!」


 体の内側から込み上げる恐怖と興奮に、おれは半分泣きながら叫んでいた。

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