4-2、悪魔が来たりて火を灯す
『ねぇ、あなたは魔女の
いつの間にか足元を這っていた蛇の姿の
おれは力なく首を横に振る。
「勘弁してくれよ。おれは重傷の体なんだ。山登りなんてしんどくてできないさ」
『……じゃあアタシの
蛇の目がぎゅっと細くなった。
だが、報酬を目的としていたイリスはもうおれのそばにはいないし、おれ一人で悪魔をどうこうしようなんてことは考えられない。おれはまたしても首を横に振る。
「無理に決まってるだろ。今更おれなんかが何ができるって言うんだ。近くに行けても、震えて見てるぐらいだろうさ」
『そう。欲望も活力も失った人間に興味はないわ。少しは見所があるかと思ったけれど、期待外れだったみたいね。一生そこで立ち止まっていなさい。せいぜい後悔にまみれた退屈な人生を送るといいわ』
蛇の悪魔の言葉は、呪いのようにおれの心を締め付ける。見離されるのは慣れている。だけど、辛いものは辛いのだ。
おれは一体どこで何を間違ったんだ?
レンと一緒にブレア山に行かなかったことか? この島に来てしまったことか? 悪魔の
イリスに出会わなければ、おれはきっと冒険者であることを諦め違う道を選んだだろう。それこそ街の食堂で料理人なんかをやっていたかもしれない。
だけど、そんな平凡な人生の何が悪いんだ? 何もできず惨めな思いをしながら冒険稼業を続けるよりずっといいではないか。
そうだ。まだ間に合う。武器を置いて、全てを諦めれば、まだおれには普通の人生が待っている。
それの何が悪いって言うんだ……!
おれがフォークを置いた時、顔の周りで一匹の蝿が飛んでいることに気がついた。弱々しく飛び、今にも死んでしまいそうな蝿だ。叩いて殺そうと手を広げた時、突然謎の声が響いた。
『ま、待て小僧! 早まるな!』
おれは驚き、叩こうとしていた手を止める。蝿はふらふら飛ぶと、テーブルの上に着地した。
『小僧。まず我の話を聞くのだ』
蝿の目がおれに向けられる。
「おれに話しかけているのはお前なのか?」
『そうだ。我の名は
そうか。イリスに呪いをかけた悪魔か。
おれは構わず手のひらを広げて、真上から蝿を叩き潰そうとする。
『待て待て待て! 我を殺しても小娘の呪いは解けんぞ。解呪の手段がなくなるだけだ。むしろ我はあの小娘を助けてやろうと貴様に話を持ってきたのだぞ』
蝿がぴょんぴょん跳ねながら抗議の声を上げた。
「よく言うぜ。イリスに呪いをかけて苦しめているのはお前だろ」
『ふん。我が契約を持ちかけねば、あの小娘は火に炙られ死んでいたぞ。全く後ろめたいとは感じんな』
確かにイリスは悪魔と契約を交わすことで、磔にされていた状態から抜け出すことができた。ある意味では、
「わかったよ。だが、イリスを助けるってどう言うことだ? クローディアさんの手から逃れる方法でも知っているのか」
『クローディア……あの悪魔狩りか。奴もどうにかしなければならないが、話はそこではない。小娘がある厄介な存在の手に落ちてしまったのだ』
「はぁ!? イリスが……厄介な存在の手に落ちた?」
まさか、復活しようとしている第三の悪魔——
『この島に巣食う悲嘆の魔女ブレアだ。悲しみの感情が膨れ上がったところをつけ込まれてしまった。現状ではそれほどの魔力は備えておらぬが、何やら狙いがあるようだった。奴は理想の器と最高の貢物が揃ったと言っていたからな』
悲嘆の魔女ブレア。
豊穣の女神サフィアと共に島の伝承で謳われている存在だ。それがただの言い伝えではないことは、おれ自身が身をもって知っている。おれは実際にサフィアと出会い、
魔女の手に落ちたと言うことは、イリスはどうなってしまったんだ。また新たな呪いをかけられたのか。それとも体と意思を奪われたのか。いずれにしても、さらに状況は悪くなってしまったらしい。
「……だけど、その話をおれにして一体何をさせようって言うんだ。おれは戦いじゃ役立たずだ。何も力にはなれない」
おれは俯きながら言う。
『誰も強さの話などしていない。我ら悪魔は感情から生まれた生命体だ。力よりも心のあり方を重視している。我は貴様に小娘を救いたいと言う気持ちがあるかどうかを尋ねているのだ』
「……気持ちがあればイリスを救えるのか?」
『あるいはそうかもしれない。小娘は悲嘆の檻の中に囚われている。檻が感情でできているのならば、その鍵もまた感情なのだ。そしてあの娘の心に近づくことができるのは小僧、残念ながら貴様しかいない』
ずいぶんと。
ずいぶんと好き勝手言ってくれやがる。
昨日までのおれだったなら、もしかするとなけなしの勇気を奮い起こして頷いたかもしれない。だが、イリスの過去を聞いてしまった後では、おれはどう彼女に接すればいいのかわからなくなってしまったのだ。
彼女を前にして、一体何て言葉をかけたらいい。
過去のことは忘れて前向きに生きようとでも言えばいいのか? 罪を償うために世のため人のため良い行いをしようでも言えばいいのか? そんなの全部、口先だけの薄っぺらな言葉だ。誰の心にも届きはしない。
おれは自分の心の中で苛立ちが芽生えてきたのを感じた。
一体おれは何に苛立っているんだ? すぐに悲観的に考えてしまうことに対してか? それともイリスにどう対応すればいいか答えを出せないからか? そもそも自分が何をしたいか、何をしなければならないのかわからないからか?
あぁ、ちくしょう。これは一体何の苛立ちなんだ!
「……わかったよ。行くだけ行ってみる。だけど、変な期待はするなよ? おれは弱っちくて、勇気がなくて、使命感もないクソザコネズミだからな!」
おれは苛立ちで昂った感情のまま言い放った。もうどうにでもなれと言う投げ槍な心だ。
『フン。それだけ吠えられれば十分だ。急いで準備をしろ。あまり時間がない』
外を見ると、すでに日は暮れかけていた。今から急いで行けば夜までにブレア山に辿り着けるだろうか。
おれは一口食べただけだったオムレットを次から次へ口に入れて飲み込んでいく。これから先、どのような展開になろうと腹を満たしておくことは重要だ。
『……すまぬ。我にも分けてくれると助かる。先ほど消滅しかけて力が出ないのだ』
おれはフォークでオムレットを一部掬い、テーブルの上に置いた。蝿はすぐさまやってきて、オムレットをむしゃむしゃ食べ始める。
『うむ、うまい。いい焼き加減だ。小娘が餌付けされて懐くほどのことはある』
小さな体のどこに入ったのか、オムレットは蝿によってあっという間に食いつくされてしまった。今度は体が重くなって飛べなくなるんじゃないかなと心配になる。
おれは自分の部屋に戻ると、三本の
部屋を出ていく直前、コート掛けに飾っていた
おれは心の中で願う——もしも本当に一年間の幸運が与えられるのならば、今日と言う一日に全て集約してほしい、と。無力なおれがすがることができるのは、結局神頼みだけなのかもしれない。
『準備はできたな? ゆくぞ』
元気を取り戻したらしい
おれは宿を後にすると、痛む足を引きずりながら黄昏の街を歩く。海の向こうに沈みかけている太陽が、最後の輝きとばかりに街をオレンジ色の光を落としていた。
結局、おれは悪魔の口車に乗せられ、クローディアや騎士団の包囲を突破して魔女に囚われたイリスを助けるなんて無茶で無謀な戦いに身を投じようとしている。
決心なんてついていない。なんでこんなことをしちまったんだと後悔でいっぱいだ。今すぐ全てをほっぽって逃げ出すことができたらどれだけ楽だろうか。
だけど。
だけどさ。
弱くて臆病で意気地なしなおれだけど——
ああ、ちくしょう。やっぱり悪魔は甘い言葉で人を惑わせる厄介な存在だ。おれのちっぽけな勇気に火をつけやがった。
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