第3章「五月女王と魔女の夜」

3-1、二つの顔を持つ島へ

 

 その日は朝早くに宿を引き払い、港に向かった。

 マグリア島へ向かう船は、なかなか盛況だった。甲板は年に一度の祭りに参加しようとする人たちでごった返している。


 宿屋の主人から聞いた話だが、マグリア島で毎年五月に開かれる五月女王祭メイクイン・フェストは各地から参加者が集まる伝統的なお祭りなのだとか。


「イリス、船乗る前はあんまり食べない方がいいぞ。気持ち悪くなるからな」


「うん」


 宿から港まで歩く間に三軒の屋台に寄って買い食いをしているイリスに忠告するが、当人はどこ吹く風だ。

 慣れて気に入ったらしいニシンの塩漬けをむしゃむしゃ食べながら、空返事をしてきた。本当に大丈夫だろうか?


「それでは、マグリア島行き連絡船出航いたします。お客様方は揺れに注意してください!」


 船長らしき人が大声を上げて、甲板の乗船客に注意を促した。

 港と船を渡していた桟橋が引き上げられ、帆が張られる。風を受けて帆が翻り、船がゆっくり動き出した。


 と、その時である。


「わ〜! 待って待って! あたしも乗るよー!」


 港から活発そうな少女の声が聞こえてきた。声の方を見れば、人影が大きく手を振りながら走って近づいてきている。だが、当然動き始めた船が止まる様子はない。彼女は次の船を待つしかないだろう。

 すると、少女は何を考えたのか岸壁の端から全身を躍動させ、大きく跳躍した。海に落ちる——と焦ったのも束の間、少女の影は空中でくるんと一回転して音もなく甲板に着地する。


「よかった、間に合った〜」


 少女はほっと安心した声で呟いた。いや、全然間に合ってねえよと心の中で突っ込む。

 信じられないものを見たように口を開けている船長に運賃の銀貨を渡すと、少女は甲板を見渡す。彼女と視線が合い、おれは驚きで目を見開いた。

 なぜならそいつは、おれのよく知る少女だったからだ。


「お前……レン!?」


 美しい褐色の肌に赤みがかった艶やかな黒髪、すらりとしなやかに伸びた体。そして何より、彼女の代名詞とも言える取り回しやすい短い槍。そこにいたのは、間違いなくおれが以前所属した一行パーティの槍使いレンだった。


「あ、ラッドだ。それにイリスちゃんも!」


 レンは軽やかな足取りでおれたちに近づいてくると、太陽のような笑顔を浮かべた。


「レン=アルザハルただいま参上! なんてねっ!」


 岸壁から船に飛び移ってきた人物がレンだったなら、何の疑いもない。それだけ彼女は抜群の運動能力と平衡感覚を身につけている。


「レン。どうしてお前がマグリオ島への船に乗ってるんだ? もしかして、クローディアさんたちも一緒にいるのか?」


 クローディアさんは、おれが元いた一行パーティを率いている女性だ。盾を扱う技術に恐ろしいほどに長けていて、彼女が傷を負った姿を見たことがない。絶対不破、完全防御……あらゆる「無敵」を意味する言葉が彼女のためにあるようなものだ。


「いやー、それが抜けてきちゃったんだよね、クローディアさんの一行パーティ。ラッドみたいにさ」


 レンは気まずそうに目を逸らして言った。


「えぇええええ!? 抜けてきたんか! なんで??」


「えーっとね……あたしもそろそろ自由に旅してみたいなって思ったからかな。あたしはずっと色んな一行パーティを渡り歩いてきたから、そういうのに憧れてたんだよ」


 おれが一行パーティにいた頃に、レンが自由な旅への夢を語っていたのを思い出した。そうか、レンは自分のやりたいことをついに実行したのか。


「それでメーアローグに来てみたら、近くの島で大きな祭りがあるって聞いてね。船に飛び乗ったんだ。そしたらラッドたちがいたってワケ。君たちも五月女王祭メイクイン・フェストに参加するんでしょ?」


「あ、ああ……まあな」


 まさか悪魔に依頼されて、魔女の夜会に忍び込んで悪魔の卵を壊そうとしているなどとは口が裂けても言えない。と言うか、説明しても信じてくれないだろう。


「だったらさ、少しの間だけでも一緒に行動してみない? あたしをラッドの仲間に入れてよ!」


 レンが目を輝かせながら提案してきた。

 凄腕の槍使いであるレンが加入してくれるのは心強い。レヴィアタンも「もう一人戦える人がいれば文句なし」と言っていたしな。

 イリスからも意見を聞こうと思ったが、彼女はおれの背中に隠れてしまっていた。


「あれ、イリスちゃん……もしかして、あたしのこと嫌ってる……?」


 レンが青ざめた表情で声を震わせた。


「いやいや! イリスはちょっと人見知りなんだよ。また後で聞いてみるよ」


「そ、そうだよね……! じゃあ、あたしは甲板を少し回ってくるから。また後でね〜」


 レンが引きつった笑顔で手を振って、離れていった。彼女は人当たりがいいので誰とでも仲良くなれるのだが、一方で距離を置かれると戸惑ってしまう。おれが自分に自信が持てなくてレンを避けていた時も、困惑させてしまい申し訳なく感じていた。


「イリス、そんなに警戒することはないんじゃないか? レヴィアタンの時とは違って、レンが実は悪魔だったなんてことはありえないんだから」


「わたしは嫌です」


 イリスがきっぱりと言った。その声には強い意志を感じる。


「……ラッドくんが、取られてしまうので」


 後半は顔を俯かせて、小さな声になった。

 イリスは何を言ってるんだ? 取られるって、まさか……料理の取り分が減ってしまうことを危惧しているのだろうか。全く、飯のことになると本当にがめつい子である。そう言う呪いを受けているので仕方ないかもしれないが。

 おれはイリスを安心させようと、フードの上から頭に手を置いた。


「安心しろよ。誰といたって、おれはお前のことだけ考えるさ」


 多分、レンは食べ物に強いこだわりはないだろうからな。食事に関してはイリスの要求を一番に優先させるのは変わらない。


「あ、あ、あの……わたしのことだけを考えるって、その……つまり、ラッドくんは、その……!」


 イリスはしどろもどろになり、落ち着きなく手を動かしている。そしてなぜか顔は赤くなり……いや、青くなってる?

 青?


「……それよりイリス、体調は平気か?」


「え、ナニガデスカ?」


 大波が当たり、船体が大きく揺れた。イリスの顔はますます病人のように青くなっていく。

 おれは嫌な予感しかしなかった。

 そしてその予感は当然のように的中することになる。





「うぇえええええ……!」


 船の端から顔を外に出したイリスの口から、太陽の光を反射して七色に光る吐瀉物がキラキラと輝きながら海に落ちていく。

 まごうことなき船酔いである。

 しかもイリスはおれの忠告を無視して乗船前にバクバク食べていたので、余計に苦しんでいる。だから言ったのに……


「うぅ……気持ち悪い……お腹がすいた……」


 ひとまず吐き尽くしたのか、柵に背中を預けて座り込んだイリスが辛そうに呟いた。

 こんな時、おれはどう対処したらいいのだろうか。イリスの二つの苦しみを同時に取り除く方法をおれは知らない。食べ物は持ってきているが、食べさせても船酔いで戻してしまうだろう。

 おれはイリスの背中をさすったり、口の周りの吐瀉物を拭いたりしながら打開策を考える。

 どうすればいい? どうすればいい!?


「イリスちゃん! 大丈夫!?」


 おれがあたふたしていると、レンが走って近づいてきた。


「ラッド、イリスちゃんはどうしたの?」


「それが、船酔いになってしまって……しかも空腹が抑えられないみたいなんだ」


 おれが説明すると、レンは真面目な顔で頷く。


「船酔いと空腹……わかった! イリスちゃん、吐けるものは全部吐いちゃった?」


「……うぃ」


 レンの質問に、イリスは力なく頷く。


「じゃあ、ひとまず口をゆすごうか。飲んじゃだめだよ?」


 レンが背中の荷物袋から取り出した皮水筒をイリスの口に当てる。イリスは水を口に含むと、レンに言われた通り口の中をゆすいで海に吐き出す。それを二回繰り返すと、イリスの顔が少し赤みを取り戻した。


「……少し、気持ち悪くなくなった。でも、お腹がすいた」


 イリスが弱々しく呟く。


「うーん……今食べるのは危険だから、これで我慢しようか」


 レンが新たに取り出した紙包みの中には、丸い飴玉がいくつか入っていた。


「飴は食べたことある? 噛まずにちょっとずつ舐めるんだよ」


 雛鳥が親鳥から餌を与えられるようにレンから飴玉を食べさせてもらったイリスは、口をもごもごと動かす。


「……甘い、です」


 イリスの表情が段々と落ち着いてくる。

 そう言えば、前にイリスはおいしいものを食べると空腹感が和らぐと話していた。腹に何かを入れなくても、飴のように口に含むだけでもいいらしい。

 レンはそのことを知らないだろうに、イリスの苦しみをあっという間に癒してしまった。レンを見るイリスの目には、なんとなく信頼が生まれているように感じる。

 やはりレンの対人関係構築能力はさすがである。


 イリスが安静を取り戻した頃に、海の向こうに島影が見えてきた。

 全く同じ形をした二つの山が、双子のようにそびえている。春の訪れを祝う華やかな祭りと、魔女が集う夜会が催される二つの顔を持った島——マグリア島だ。

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