幕間(イリス視点)、決して知られてはならないこと
◇ ◇ ◇
ずいぶんと朝寝坊をしてしまったようです。
わたしは窓から差し込む眩しい光を感じて目を覚ましました。太陽は頂点近くまで登っています。もうお昼が近いのでしょう。
全身にだるさを感じます。体がすごく重いです。
ここは宿の部屋の中のようでした。わたしとラッドくんが泊まっている二人部屋です。だけど、もう一つのベッドにはラッドくんの姿がありません。一体どこに行ってしまったのでしょう。
急に空腹を感じて、わたしはお腹を押さえました。
少し前まで、わたしはこの空腹の痛みが嫌でした。お腹が減って、お腹が減って、どうしようもなく苦しくなって、目についたものを食べても全然治らなくて。
だけど、今は少しだけ終わらない空腹も悪くないと思うようになりました。だって——お腹が減っていた方が、ご飯がおいしく食べられるのですから。
部屋の中を見渡すと、小さな丸いテーブルの上にバスケットと水差しが置いてありました。
わたしはベッドから出ると、バスケットの蓋を開けました。中には細長いパンで具材を挟んだサンドイッチが入っていました。具材は……やった! お肉です!
この街に来てからと言うもの、ほぼ毎食魚料理を食べています。安くておいしいのは素晴らしいのですが、食べ続けていると飽きがくるものです。
わたしは高鳴る胸を抑えながら、サンドイッチに噛り付きました。
肉の風味が口に広がり……ではなく、これはチーズ! 圧倒的チーズ……!
薄切りにした
そう言えば、メーアローグの街には魚を扱うお店と同じくらいチーズのお店が並んでいます。ニシンと同じく街の名物なのでしょうか。
本当はちゃんとした感想をラッドくんに伝えたいのですが、恥ずかしくていつも「おいしい」としか言えていません。今度は頑張ってみようと思います。
「ふう。おいしかった」
サンドイッチを食べ終わると、わたしは水差しから木のコップに水を注いで飲みました。喉が渇いていたので、すっと身体に染み込みます。
それにしても、ラッドくんはどこに行ったのでしょうか? 疑問に感じていると、規則正しく階段を登る音が聞こえてきました。扉がゆっくりと開きます。
「あ、起きたんかイリス」
半分開いた扉から、白い頭巾を被ったラッドくんが顔を覗かせました。少し臭い匂いが部屋に入り込んできます。
「朝にシギのところに行って報酬をもらってきたんだよ。おれたちの取り分は金貨三枚と日当三日分だった。いやぁ、一気に金持ちになっちまったなあ」
ラッドくんは嬉しさを隠せないのか、自然と笑顔になっていました。お金は食べ物の引き換え券のようなものなので、わたしも嬉しいです。
「土産にってんで燻製ニシンもいくつかもらってさ。今、宿の台所を借りて調理してるんだ。そのまま食べたりサンドイッチにしてもおいしいんだけどさ、ジャガイモと一緒に煮込んでみたんだ。食べる?」
「食べます食べます」
わたしは即答します。
ラッドくんから漂う少し臭い匂いは、燻製ニシンのものだったようです。臭くても食べたらおいしいのでしょうか。
「なぁ、イリス……その……まぁ、いっか。鍋ごと部屋に持ってくるから待っててくれよ」
何かを言いかけたラッドくんですが、笑ってごまかして部屋を出て行きました。
ラッドくんが何を言おうとしたのか、なんとなくわかります。きっと、昨日会った悪魔レヴィアタンから言い渡された
無事に
だけど、わたしは悪魔に会うことを恐がっています。本能的に恐怖を感じているのもあります。それ以上に、あの日の出来事が悪魔の口から語られてしまうのではないかと危険を感じているのです。
もしもラッドくんにわたしの秘密を知られてしまったら、この旅も終わってしまうでしょう。
それが、どうしようもなく恐いのです。
わたしは立ち上がると、窓に歩み寄ってそっとガラスに触れました。窓の向こうでは、真っ青な空とその色を映したような海が輝き、美しいオレンジの街並みが自然と調和しています。
わたしがガラスを割った時、本当は、そこには地獄のようなおぞましい風景が広がっているのではないか。そんな不安がわたしの心を締め付けてきます。
ラッドくんは本当のわたしの姿を知らない。だから今も楽しい旅ができている。だけどガラスが一枚割れて真実が見えたなら、この関係は壊れてしまうでしょう。
わたしは今が楽しい。
人生で一番楽しい。
だから、決して彼に知られてはならない。
わたしが何者であったのか。
わたしが何をしてしまったのか。
決して、決して、知られてはならないのです。
「イーリースー」
声がして、わたしはハッと顔を上げました。扉が開いて、小さな鍋を抱えたラッドくんが部屋に入ってきます。
「これが燻製ニシンとジャガイモの煮込みだ。なんか物足りなかったからトマトも入れた」
鍋を覗き込むと、刻んだ燻製ニシンがジャガイモやトマトと一緒に煮込まれていました。あの臭い匂いが不思議と食欲を掻き立てるいい匂いに変わっています。
「試食もしたけど、ニシンの味が濃縮されてうまかったぞ。やっぱり見た目や匂いで敬遠しちゃいけないな。何事も食べてみなきゃわからないってね」
確かに加工場で燻製ニシンを見た時は、あまりの匂いにこれが食べ物なのかと疑ってしまいました。しっかり調理された今は、匂いも含めてとてもおいしそうに感じます。
食べてみなきゃわからない。
それは今のわたしに足りない勇気のように感じました。
もしもわたしが呪いを解く方向から逃げてしまっては、そもそも旅の意味がなくなってしまいます。旅を続けたいのならば、どこまでも進むしかないのです。その先に悪魔の影が見え隠れしたとしても。
逃げるな、食らえ——頭の中で声が響きました。
「ラッドくん。食べる前に伝えたいことがあります」
わたしは意を決してラッドくんの顔を見ました。
「島に行きましょう」
そう言うと、ラッドくんは一瞬意外そうな表情を浮かべました。だけどすぐに笑顔になって、答えます。
「お前が決めたなら、おれは反対しないさ。やってみようか、悪魔の
わたしはラッドくんの言葉に頷きました。
歩き続けている限り、そこに道ができるなら、わたしはラッドくんと進み続けたい。
たとえそこが、地獄の業火の上に作られた薄いガラスの道だとしても。
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