5-2、悲嘆の波動

 

 おれとレンが悲嘆の怪物目掛けて駆け出すと、怪物はゆっくり片腕を伸ばしてきた。

 指を広げた怪物の手は視界を覆い、まるで天井が落ちてきたみたいだ。おれたちは二手に分かれ、天から降ってきた手を回避する。


「レン、やつの足元はおれが爆破で崩す! 本体への攻撃を頼めるか!?」


 おれが叫ぶと、レンは片腕を上げて応えた。


「任せて! 絶対にイリスちゃんに届く道を作ってみせるよ!」


 直後、おれとレンの間の地面に怪物の手がめり込んだ。周囲の土が隆起し、軽い地響きが起きる。

 動きは緩慢だが、一撃の範囲が広い。少しの油断が命取りになる。

 おれは弧を描くように回り込みながら、悲嘆の怪物の足元に近づいて行く。


『イィィィアァアアアアアアア!!!!』


 女性の彫像を思わせる顔の怪物が大きく口を開き、そこから黒く染まった波動を放つ。波動は球形に広がり、近づくものを排除する結界となった。

 おれは波動の衝撃に押され、後ろに転がる。波状の攻撃という意味ではクローディアが操る反撃の盾『バングリア』の衝撃波に近いが、範囲が桁違いだ。クローディアが迎撃や反撃に使っていたのに対し、怪物の衝撃波は自身に近寄らせない防御の意味合いが大きいだろう。


 悲嘆の怪物が地面にめり込ませていた腕を戻し、再び口を開く。

 まずい、黒の波動を連発しておれたちを遠ざけるつもりだ。


「させるかよ!」


 おれはすぐさま短剣ダガーを振るい、数発の刃鱗を放った。刃鱗は一直線に飛び、怪物の口の中に着弾する。

 そして間髪入れずに起爆! 怪物の口内で小爆発が起こり、煙が上がった。


『アァアアアアアァアアア……!!!!』


 悲嘆の怪物は体を仰け反らせ、苦しそうな声をあげる。黒の波動の攻撃は阻止することができたようだ。

 いける。おれの攻撃は効いている。このまま削っていけば、いつかやつを地面に引きずり倒すことができるはずだ。


 そんな希望が胸の中で生まれたのも束の間、色のなかった怪物の瞳が不気味に赤く光り出した。赤の光は激しさを増し、闇の世界を染めていく。

 怪物の体に変化があった。二本の腕が細くなると、体から新たに四本の腕が生えてきた。計六本の腕がうねうねと動いている。


「腕が、増えた……!」


 レンが驚きの表情で呟いていた。

 さっきまでの姿はまだ本気ではなかったと言うことか。おれの攻撃が引き金となり、やつを警戒態勢にしてしまった。だが、怯んではいられない。とにかく前に出なければ!


 細くしなやかになった怪物の腕が、空を切り裂き想定外の速さでおれに襲いかかってくる。

 上から潰しにかかってきた腕を、おれは全速力で駆け抜けかわしていった。手の先についた鋭利で巨大な爪が、次々と地面に突き刺さっていく。

 腕は六本。避け続ければすぐに隙はできるはずだ。


 だが、五本まで避けたのを数えたところで上空から降ってくる腕はなくなった。残りの一本はどこへ——と視線を巡らせると、真横から鞭のようにしなる腕が迫ってきていた。

 跳んで避けるか? 防御して受けるか?

 考える暇もなく、攻撃はやってくる。おれは覚悟を決めると、両手の短剣ダガーを後ろに引いた。迫る腕に合わせ、交差させるように振るう。

 短剣ダガーが食い込んだ瞬間、鱗を起爆。刃が入れた切れ込みを、爆破がさらに押し拡げる。自分自身も間近で爆発を受けて傷つく諸刃の技だが、構いはしない。

 結局、おれみたいなどうしようもない弱者が勝利を手にしようとしたら、何かを犠牲にしなければ叶わないのだ。


 だからおれは、おれが傷つくことを恐れない。

 手を伸ばしたその先に、大切なものに届くのならば——!


「おぉおおおおおおおお!!!!」


 おれは怪物の腕を両断する。切り離された腕の先が地面に転がり、塵のように分解して消滅した。

 これで六本の腕を捌いた。後は突き進むだけだ!

 爆発でふらつく体を無理やり動かし、おれは駆け出す。やつの足元を崩す自分の使命を果たすために。


『アァアアアアアアァァァァアアアアアアア!!!!』


 悲嘆の怪物が口を開き、金切り声とともに黒の波動を放つ。もう後には引けない。真っ向勝負だ。

 足に力を込め、腰を落とし、衝撃に備える。直後、体を引き剥がすような突風が全身を襲った。気を緩めたらすぐにでも後ろに吹き飛ばされそうだ。

 吹き荒れる向かい風の中、おれは一歩ずつ前に出る。少しずつ、少しずつ、前へ。


 膠着状態が続く。衝撃波が途切れることなく全身を打ち付けてくる。

 前だ。前に出ろ。

 道は前にしか拓かれていない。もはや後退することはできないのだ。行け、進め、決して挫けるな。一瞬でも怖気付けば、たちまち道は閉ざされる。だから、行け、進め、進み続けろ。


「くそ……! 頑張れ、頑張れよ……ここで頑張れなきゃいつ頑張れるんだ……!」


 おれは自分で自分を鼓舞し続けることでしか、精神を保てなくなってきていた。ここに来て、修羅場をくぐり抜けたことがないおれの経験の浅さが浮き彫りになった。

 きっと強い人は何度も死線をくぐり抜け、自分の精神を強く鍛えてきたのだろう。こうしたギリギリの状況でも心を強く保ち続けられるように。おれにはその研鑽がない。自分の弱さを言い訳に、立ち向かうことから逃げ続けてきたからだ。


 


 


 


 自分の耳に心地良い言葉ばかりを並べて、試練の時を遠ざけてきた。そのツケが回ってきたのだ。

 だけど今、心が折れつつもなんとか踏ん張れているのは自分が変わりつつあるからだろう。不格好でも、情けなくても、前に進むことができているのは、ほんのちょっとでも成長することができたからだろう。


 自分が変わったきっかけを思い返せば、心当たりはたくさんある。クローディアに勝ったことか、悪魔と契約して力を手に入れたことか、モーリーを罠にかけたことか、巨神狼フェンリルに一撃を与えたことか。

 遡っていけば、やっぱり彼女がくれた言葉に行き当たる——『ラッドくんだけができることは、たくさんあります。お腹がすいて倒れていたわたしにパイをくれたみたいに』。


 あの子だけが、おれを特別だと言ってくれた。


 あの子だけが、おれを本心から必要としてくれた。


 小物くさい理由なのはわかっている。だけど嬉しかったんだ。本当に嬉しかったんだ。

 この広い世界の中で、あの子がおれを見つけてくれた。それでおれは、本気で変わりたいと思うようになったんだ。


 だから


「だから……!」


 さらにもう一歩踏み出したところで、体の抵抗がなくなった。怪物が放った黒の波動を超えたのだ。

 おれは前のめりになって倒れそうになりながら、走り続ける。真っ直ぐに、あの子のもとへ。

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