3-6、五月女王〈メイクイン〉に花冠を
おれたちは夜の港街をのんびり歩きながら、宿に向かって帰っていく。
さっきまで隣り合って一緒に海を眺めていたのだが、今はなんとなく気まずい。気持ちが盛り上がっていたこともあり、よく考えたら恥ずかしい言動をしでかしてしまった気がする。
同じことを感じているのか、イリスもいつもより少し距離を取っておれとは違う方を向いて歩いている。微妙な空気が二人の間には流れていた。
あぁ、何か話題はないだろうか。このままでは重い雰囲気に押しつぶされてしまいそうだ。
話のきっかけを探してきょろきょろ視線を動かしていると、ちょっとした人だかりができているのに気がついた。
「な、なぁイリス。あそこで何をやってるんだろうな! 見に行ってみないか?」
「う、うん」
おれがわざとらしい明るい声で提案すると、イリスがぎこちなく頷く。
近づいてみると、どうやら人形劇を上演しているようだった。可愛らしい人形が木の舞台の上で動いている。看板によると、どうやら宿屋の主人が話していた五月女王と魔女の伝説の内容を上演しているらしい。
『あなたはだあれ? わたしはサフィア』
『あなたはだあれ? わたしはブレア』
物語は父親と一緒に島にやってきた少年に、サフィアとブレアの姉妹が興味津々に名前を訪ねる場面から始まる。
少年の父は料理人で、少年も父の手伝いを通して料理の腕を磨いていた。少年がサンドイッチを手作りして姉妹と三人で楽しくピクニックに行ったり、二人の誕生日を祝うためケーキを焼いたりと、仲を深めていく様子を人形が演じていく。
しかし、幸せは長くは続かなかった。
ある日、少年とサフィアが二人で花を摘み冠を作っているのをブレアが目撃する。少年はサフィアに心惹かれていると勘違いし、絶望したブレアは呪いの言葉を口にして自ら命を絶ってしまう。
真実は違った。少年はブレアに思いを伝えようとして、サフィアに相談を持ちかけていたのだった。花の冠は、少年がブレアに贈るために作っていたものだった。
結果として自分の行動が最愛の姉妹の命を奪ってしまったことに責任を感じたサフィアも、ブレアの翌日に自裁してしまう。
二人が亡くなった場所には、墓標の代わりに小高い山が生まれた。そしてただ一人取り残された少年は墓守となって今も双子の山を守っているという。
なんとも後味の悪い話だ。
ほんの少し何かが違えば、皆が幸せに暮らすことができていただろう。些細なかけ違いが取り返しのつかない悲劇を生んだ。
料理好きだということで勝手に親近感が湧いていた少年の気持ちを想像すると、底知れない絶望を感じる。島に来て仲良くなった二人の少女をどちらも失ってしまったのだから。悲しい出来事があっても彼が島に残ったのは、贖罪のためだろうか?
人形劇の幕が閉じて、手伝いの少女がひっくり返した帽子を手に観客の間を回っていく。帽子には銅貨や銀貨が次々と投げ入れられた。おれも少女を手招きして、銅貨を入れた。
「面白かったな。そろそろ戻ろうか、イリス」
「うん」
気が紛れたからか、イリスとの気まずい空気も薄れたように思う。
空を見上げると、細い月が目に入った。数日前まで三日月の形をしていたが、ますます細くなっている。もうあと数日もすれば新月になるのではないだろうか。
月には不思議な力があり、特に満月か新月になるとその力が増幅するのだと聞いたことがある。もしかしたらそれはレヴィアタンが話していた魔力とでも呼ぶべき力なのかもしれない。
一瞬、月が妖しい輝きを放ったように見えた。
夜空から地上に視線を戻したおれは、思わず立ち止まってしまう。
「あれっ……どこだ、ここ……?」
気がつくと、おれは人気のない路地に立っていた。あれほど人の往来があったのに、ここにはおれ以外誰もいない。さっきまで隣を歩いていたイリスもどこかへ行ってしまった。
「イリス! どこに行ったんだ?」
おれはイリスの名前を呼びながらあたりを歩き回るが、返事はない。それどころか誰とも出くわさない。無人の道に、おれの声だけが虚しく反響する。
これはおかしい。どう考えても異常な事態だ。皆、どこへ行ってしまったんだ?
混乱から恐怖心が芽生える。心細くなり、自然と早足になった。
「こんにちは」
突然声が聞こえて、おれは体を震わせた。最近はこんな経験ばかりだ。
声の主は少女だった。まだ十歳を超えて少しだろうという長い水色の髪の少女が、道の真ん中に立っていた。
不思議と恐怖は感じなかった。おれはふらふらと引き寄せられるように、少女のもとへ歩いていく。
「あなたはだあれ? わたしはサフィア」
少女は無邪気な笑顔を浮かべて言った。
サフィア、とは島の物語に出てくる姉妹の名前だ。この少女は物語の真似っこでもしているのだろうか。
「こんにちは、お嬢さん。おれはラッドだ。だけど、こんなに遅く出歩いていたら親御さんが心配するぞ。楽しんだら、早めに家に帰るんだよ」
おれは身を屈めて少女の目線と同じ高さになり、挨拶を返した。
少女は何が楽しいのか、ずっと笑みを浮かべている。
「これ、あげる」
そう言って、少女は後ろに回していた手をおれの前に差し出す。少女の手には真っ白な花を繋げて輪っかにした冠が下げられていた。
「これを、おれに?」
自分を指差して尋ねると、少女は笑顔のまま大きく頷く。受け取らないのもこの子に悪いので、おれは花の冠を手に取った。今日は人からよく物をもらう日だ。
少女はおれに冠を渡すと、役割を終えたように体を反転させて道の向こう側へ走り去ってしまう。おれは手を伸ばしたが、少女の背中は闇の中へ消えていった。
耳に人の足音や話し声が戻ってきた。いつの間にか、周囲は祭りの夜の雑然とした雰囲気に戻っている。おれは手を伸ばした姿勢のまま、人混みの中に立っていた。
おれは夢でも見ていたのだろうか。だが、この手にはもらったばかりの花の冠がしっかりと握られている。あの空間も、水色の髪の少女も確かに存在していたことを証明していた。
「ラッドくん」
聞き慣れた少女の声が聞こえ、おれは振り向いた。
息を切らしたイリスが走って近づいてきている。心なしか、余裕のなさそうな不安げな表情だった。
「急にいなくなったので、探しました。本当に、心配しました」
イリスが若干おれを咎めるような口調で話す。それだけおれを心配してくれていたのだろうというのが伝わってくる。
「悪い。急に変な場所に迷い込んじゃたんだ。心配かけてすまん」
「……ところで、ラッドくんが持っているお花の輪っかはなんですか?」
おれが手に持っている白い花の冠に気づいたイリスが尋ねてきた。
「ああ、これか? さっき女の子からもらったんだよ」
「女の子に……もらった……? わたしが、ラッドくんを探している間に……?」
イリスの声が氷を思わせる冷たい口調に変わった。小さな体から、殺気のような気配が放たれたのを感じる。
「いやいや! 女の子といっても全く知らない子だったし、多分の島の人じゃないかな。外から来た人に花の冠をあげる習慣があるのかもしれないなぁ!」
おれは慌てて弁明した。イリスを前にして命の危険を感じるのは、初めて出会った時以来ではないだろうか。
「そうですか。ラッドくんが言うなら、きっとそうなのでしょうね」
口調を変えないままイリスは続ける。これは信じてもらえているのだろうか、それとも疑われているのだろうか。いや、気をしっかり持て。やましいことは何もないはずだ。
イリスはおれの隣に立つと、そっぽを向いたまま小さな手をおれの手に重ね合わせてきた。
「……またいなくなられても困るので、こうします」
イリスが視線を外したまま言った。その声には恥ずかしいような、照れているような響きがあった。
おれは笑ってその手を握り返す。
「そうだな。もうはぐれたりしないようにね」
そう告げると、イリスはますます顔を逸らせていくのだった。
おれはイリスと手を繋いで歩いていく。月夜の下、波の音が聞こえる場所で。
「やぁ、おかえりなさい。夜の散歩は楽しかったかい?」
宿に戻ると、主人が先に帰ってきていた。ちょうど食事を終えたのか、テーブルから食器を片付けているところだった。
おれはイリスと手を繋いだままだったことに気がつき、慌てて手を離す。しかし、居間のソファでくつろいでいるレンには見られてしまったのか、ニヤニヤと楽しそうな笑顔を向けられた。
「そうだ、ご主人。少し尋ねたいことがあるんだ」
おれが聞きたいのは、少女にもらった花の冠についてである。おれが勢いで言った、島の外から来た人に冠を渡す風習は本当にあるのだろうか。
主人に白い花の冠を見せると、なぜか声を失い口をあんぐりと開けた。
近づいて恐る恐る冠を手に取ると、表情が青くなっていく。
「……これは、ラッドくん。君が受け取ったのかい? イリスちゃんではなく?」
主人が震えた声で尋ねてきたので、おれは頷く。
「ん? ああ、そうだ。人気のない道に迷い込んでしまったら、女の子からもらったんだ。水色の長い髪をした子だったな。この島の子供なのか?」
しばし、答えはなかった。主人は手で顔を覆ったり、何度も首を振ったりした後に、絞り出すように言った。
「そう、だね……島の子供と言えば、ある意味そうかもしれない。だけど、いいかい……落ち着いて、私の言うことを聞いてほしい」
主人がおれの肩に手を置き、真面目な顔で正面から見つめて告げた。
「その少女は豊穣の女神サフィアが街に現れた姿だ。そしてこの花の冠は、
主人の言う
あれ? と言うことはつまり……
「そう。君が今年の
………………………………はぇ?
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