第4章「冷酷なる処刑人」
4-1、ただ君がそこにいた
目を覚ますと、おれは宿の部屋にいた。
天井の木目が視界に入る。起き上がろうとして、全身に走る痛みに呻いた。体の表面だけではない、骨自体が軋んでいるような痛みだ。
「ラッド、起きたんだね。よかった」
扉が開く音がして、そちらを見ると褐色肌の槍使いレンが微笑を浮かべて立っていた。だが、いつも明るい彼女にしては落ち込んでいる様子だ。
「何が、あったんだ……あの後」
おれはベッド上で無理やり体を起こして、レンに尋ねる。
おれが覚えているのは、イリスに今まさに剣を振り下ろそうとしたクローディアの腕にしがみ付き動きを止めたところまでだ。
「……あの後ね、イリスちゃんが包囲を突破して山の方に逃げたんだ。クローディアさんたちはイリスちゃんを追っていったけれど、捕まえられなかったみたい」
レンはほっとした表情で言った。
そうか。イリスは無事に逃げることができたのか。自分のあの無謀な行動も、ほんの少しだけ意味があったのなら嬉しい。
「だけど、よくおれたちを無事で帰してくれたな。あの雰囲気じゃ、そのまま殺されてもおかしくなかっただろ」
昨日見たクローディアは、おれが知っている冒険者の彼女とはまるで別人だった。冷酷で無情な処刑人。イリスをかばったおれたちを許さない迫力があった。
「クローディアさんはこう言ってたよ——貴様らが悪魔に操られていた可能性もなくはない。今は異端審問を開き真実を追求する余裕はないため不問にする。ただし、次邪魔立てをすれば容赦はしない——だって」
その言い方を聞くと、おれたちは処罰するかどうか微妙な判定だったらしい。彼女の中でははっきりと異端認定をする線が引かれているのだろう。
「ははっ、邪魔立てをすればって……一体どうやったらあの人の邪魔ができるって言うんだよ」
おれは自嘲気味に笑った。
あんなに強すぎる人の行く手を遮ることなど、山のような巨体を持っていたとしても不可能だろう。ましてや、おれの体はすでにボロボロだ。鼠が獅子に立ち向かおうとするようなものだ。
「……あたしは行くよ。だって悔しいもん! どんな理由があったって、イリスちゃんをあんな目に合わせるなんて許せない。しかも、あたしが利用されていたなんて……!」
レンが悔しそうにうつむき、両拳をぎゅっと握った。
彼女が感じている悔しさは容易には想像できない。知らなかたっとは言え、悪魔憑きの炙り出しに利用され、間接的にイリスをクローディアに差し出してしまったのだから。
「行くってどこに行くんだ。イリスが逃げた先もわからないだろ」
「ブレア山だよ。少なくともクローディアさんたちはそう睨んでいる。今日の午前中にはサフィア山の山狩りを終えて、いよいよブレア山に入ろうとしている。今日中に決着をつけるつもりだ」
「今日って確か、魔女の
魔女の
ならばブレア山には今晩、暴食と傲慢二人の悪魔が揃うことになる。
「多分、夜までにイリスちゃんを見つけようとしてるんじゃないかな。クローディアさんもできれば同時にぶつかることはしたくないはずだよ」
それもそうだろう。だが、いざという時には二柱の悪魔を同時に相手にしても、一向に引かず戦いを挑むに違いない。クローディアには鋼鉄よりも硬い意思が宿っている。
「ラッドは怪我をしてるから仕方ないけど、あたしはまだ十分に動くことができる。何ができるかなんてわからないけど、あたしはこのまま泣き寝入りするのは嫌なんだ」
レンは力強く言うと、部屋の隅に立てかけてあった短槍を手にして部屋を出て行こうとした。
「ま、待て、レン。それじゃお前も……お前も殺されてしまうかもしれないんだぞ!」
おれはベッドから立ち上がろうとして失敗し、床に落ちながらレンに向けて手を伸ばす。だが、レンはこちらを振り向かずに扉の向こうに消えていった。
部屋にはおれ一人だけが残された。怪我の痛みで満足に動くこともできないおれだけが。
壁に手をつきゆっくり立ち上がる。右足や左腕の骨が軋むように痛んだが、どうにか歩くことはできそうだ。歩けるからといって何ができるわけでもないが。
窓の外を見ると、日はやや傾きかけていた。どうやら昼過ぎまで眠ってしまったらしい。
「……ははっ、とりあえずご飯でも作るかな」
独り言が部屋の中で虚しく響く。
おれは自分の荷物袋からいくつか食材を取り出すと、一歩ずつ慎重に歩いて宿の厨房に向かった。
竃に残っていた火でフライパンを熱し、昨日買っておいた卵を二個をよく混ぜて味付けし、平べったくなるように焼く。刻んだトマトとマッシュルームを中に包み、簡単なオムレットを作った。
皿に盛ったオムレットにフォークを入れると、ふわりとした感触が手に伝わった。口の中に運んで咀嚼すると、柔らかな卵に包まれトマトの酸味とマッシュルームの旨味が踊った。
おいしい。
おいしいのは間違いないのだが、何かが足りない。
調味料か、食材か、それとも——
『ラッドくん。これ、とてもおいしいです』
イリスの声が聞こえたような気がして、おれはハッと顔を上げた。
だが、テーブルの向かいの席にその姿はなく、座る人を失った木の椅子が所在無さげに置かれているだけだった。
なんだよ。
いつの間にか、おれはイリスのために料理を作ることが楽しみになってたみたいだ。
あの子が食卓につき、子供みたいにそわそわしながら料理を待っている姿が好きだった。
あの子が料理を頬張って少しだけ浮かべる笑顔が好きだった。
あの子が食べ終わった後に幸せそうに言う「ごちそうさま」の言葉が好きだった。
だけどもう、おれが彼女のためにできることはない。
なんの力もないおれでは、これから始まるであろう戦いに跳ね飛ばされてしまうだけだ。嵐の海に小舟で漕ぎ出ていくようなものなのだ。
「なんだよ、おれは……何の価値もねえじゃねえか」
込み上げてくる虚しさに、おれは乾いた笑い声をあげた。
戦いでは役に立たない。料理なんてできても食べてもらいたい相手がいなければ、何の意味もない。おれが何かをできるようになってきたと成長を感じていたのは、ただの幻想だった。
おれは何もできないままだ。
ただ、イリスが——君が隣にいただけだった。
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