3-3、悪魔の誘惑

 

    *  *  *



 午後になり、おれは一人山裾の道を歩いていた。

 ひとまず魔女の夜会サバトが開かれるブレア山を下見するためである。


 イリスはレンと一緒にお祭り騒ぎの街を巡っている頃だろう。おれを手伝うと言ってくれたが、今日くらいは楽しんでほしい。きっとレンなら年頃の女の子の街の回り方をイリスに教えてくれるはずだ。そうやって少しづつ楽しいことを増やしてもらったらと密かに願っている。


「しかし、寂しい場所だな」


 孤独を紛らわすようにおれは呟いた。

 サフィア山に入るまでの道は巡礼者や観光客で賑わっていたが、その裏のブレア山へと続く道は人っ子一人見かけない。雰囲気も段々暗くなっていくように感じる。


 こうして一人で緊張感のある場所を歩くのも久しぶりだ。最近はずっとイリスが隣にいてくれたからな。あいつがいれば恐いものはない。全ての脅威を死神の鎌で刈り取ってくれる。

 だけど、それはおれが変わったわけではない。おれはずっと弱っちいままだ。投げる戦い方に方向性を見出したはいいものの、果たして役に立っているかは自信がない。


 このままでいいのだろうか?

 その疑問が頭の片隅にあって離れない。

 イリスと一緒に旅をしていれば、自分は何かが変わるかもしれないと思っていた。だが、今のところ目立った変化はない。むしろ心のどこかで彼女の強さを頼りにしてしまっている、情けない自分がいる。


 いつの間にか、周囲に木々が生い茂る道に入った。太陽の光が遮断され、周囲は不気味に薄暗い。


「なんか、変な感じがするぞ……」


 一歩踏み出すごとに、自分がまるで別の世界に紛れ込んでしまったのではないかと錯覚してしまう。

 木々の間から誰かの笑い声のような音が聞こえ、背筋に悪寒が走った。風が葉っぱを揺らしているのだろう。そう自分に言い聞かせて先へ進む。


 緩やかな上り坂の道の先に、人影を見つけておれは立ち止まった。

 道の真ん中に立つ人影は、動くことなくじっとおれを見つめている。顔は見えない。木々の作り出す影に塗りつぶされている。


「あのー」


 おれは絞り出すように、人影に声を掛けた。

 返事はない。人影は人形のように微動だにすることなく、ただそこに立っていた。


『あなたはだあれ?』


 突然耳元で少女の声が響き、おれはとっさに短剣ダガーを手にして振り返る。

 だが、振り返った先には誰もいなかった。おれの歩いてきた道が、続いているだけだ。

 幻聴だろうか? いや、それにしては声ははっきりと聞こえてきた。誰かのいたずらだったのなら、誰も見当たらないのはなぜだろう。


 恐る恐る視線を戻すと、さっきまで道の先にいた人影はいなくなっていた。いや、跡形もなく消えてしまったと言う方が正しい。

 一体、何が起きたんだ?

 おれは薄暗い森の道の中で、ただ一人立ち尽くした。


『どうやら、濃い魔力が空間を変質させているみたいだね』


 またしてもどこからか聞こえてきた声に、おれは驚いて腰を抜かす。尻餅をついたおれの前に、近くの草陰から一匹の蛇が這い出てきた。


『ふふっ、そんなに驚かなくてもいいじゃない。アタシよ、嫉妬の悪魔レヴィアタン


 そう言って、蛇は口の端を歪めて笑みのような表情を作った。

 普通の蛇は笑わないし、そもそも喋りもしない。どうやらこの蛇は悪魔が化けて出た姿で間違いないだろう。


「な、なんだ。じゃあさっきの声はあんたのものだったのか」


『さっきの? アタシが来たのはたった今だから違うわよ』


 レヴィアタンが首を傾げる。


『ふふっ、どうやらちょっと恐い目に遭ったようね。だから言ったじゃない。魔力が空間が変質しているって』


「マリョク? なんだ、それは」


『馴染みの薄い言葉かしら。前に人間の感情が沈殿して生まれた沼からアタシたち悪魔が生まれるって話をしたでしょう? その沼を魔力と呼んでいるの。悪魔の源泉となる力のことをね』


 こいつら悪魔は人の感情を糧に生きていると話していた。その糧を悪魔たちは魔力と呼んでいるのか。


『悪魔が再誕しようとしているこの島では、魔力が渦巻いている。濃い魔力は現実に影響を与えて空間を狂わせるの。あるはずのないものが生まれたり、突然知らない場所に迷い込んだりね。楽しいでしょう?』


 いや、ちっとも楽しくない。

 ならばさっきの人影や耳元で聞こえた謎の声は、全て魔力のせいだと言うことか。それを聞いて、逆に安心した。得体の知れないものほど恐いものはないのだから。


「なぁ、あんたの力でどこに悪魔の卵があるのかとかわからないのか? そうすればずいぶん仕事も楽になるんだが」


 おれが尋ねると、蛇は首を横に振る。


『残念ながら、アタシにそれほどの力はないわ。今は誰も契約者がいないから、こうやって形を保っているだけでも精一杯。あぁ、でもあなたの力になる方法はあるわ』


「なんだ、それは」


 おれは嫌な予感しかしなかった。そしてそう言った予感は大抵当たるものだ。


『アタシと契約するのよ。あなたの魂はすごくおいしそうだもの。ずっと誰かを妬んで、羨んで……あなたの中にはどす黒い嫉妬エンヴィーの炎が渦巻いている。モーリーとは比較にならないくらいにね』


 レヴィアタンが先が二股に分かれた舌を出す。

 おれは透き通った蛇の目に吸い込まれそうになった。だが、間一髪のところで我に返り、自分の頬を叩く。


「そんな誘惑に惑わされるか! おれはイリスの呪いを解くために旅をしているんだ。それでおれまで悪魔憑きになっちまったら、本末転倒だろうが」


 おれがいつも他人に嫉妬してしまっていることくらい、おれが一番知っている。自分があまりにも至らな過ぎて、他の人が全員完璧に思えてしまうくらいだ。

 だが、そんな理由で悪魔に魂を売ることはしない。おれは借り物の力で自分を満たそうとは思わない。


『そう? ふふっ、残念。あなたとならいい相方パートナーになれると思ったんだけど』


 レヴィアタンの目から誘惑の光が消えた。おれはほっと息をつく。危うく悪魔の誘いに惑わされてしまうところだった。おれはなんて心が弱いんだ。


『それじゃあ依頼主としてあなたに助言するわ。。できれば最高の戦力を整えた上でね。アタシが提供できる情報はこれくらいかしら。それじゃあ、あなたたちの働きに期待してるわね』


 そう言ってレヴィアタンは片目をつぶり、草薮の中に戻っていった。

 後にはおれだけが残された。森の中の静寂が嫌に強く感じる。この場にイリスがいなくて良かった。あいつは悪魔に恐れを抱いてしまう。

 夜に来い、と。レヴィアタンは言った。メーアローグの街での戦闘も夜の間に行った。どうして悪魔というのは夜の時間を好むのだろうか。


「……とりあえず、出直すとするか」


 おれは体を反転させ、元来た道を戻り始める。とにかくこの場を離れられることに安心感を覚えた。


『あなたはだあれ? わたしはブレア』


 またさっきの少女の声が聞こえてきたが、何も聞こえていないことにする。この声は魔力とやらが作り出した幻聴に過ぎないのだから。

 だが、今少女の声は名前らしきものを言った気がする。なんと言ったのだろうか。

 おれは心に引っかかるものを感じながら、山を下りていった。

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