4-6、真紅の瞳は儚くて
流れていく。
流れていく。
イリスを形作っていた血が、彼女の体を離れて地面に染み込んでいく。
おれは血だまりに膝を着くと、震える手で倒れたイリスの体を静かに起こした。彼女の体は軽かった。このまま手の中で壊れてしまうのではと思うほどに。
「イリス……なぁ、イリス……!」
おれは腕の中の少女の名前を何度も呼んだ。
おれのせいだ!
おれが不用意に近づいたせいで、イリスは気を取られてしまった。そこに隙が生まれて、本来だったら避けられたはずのクローディアの攻撃を受けてしまったのだ。
「……ラッド、くん」
イリスの目が薄っすらと開く。その口から、今にも消えてしまいそうな弱々しい声が漏れた。
おれは彼女の命がまだ繋がれていたことに安堵した。
悪魔憑きは多少の傷では死なない。だが、このような深い傷では、急いで処置をしなければどうなってしまうかわからない。
どうすればいい? こうしている間にも、彼女の命の灯火は小さくなっていく。焦りばかりが生まれるおれに、イリスが問いかけてきた。
「どう、して……ここ、に……?」
「どうしてって……決まってるだろ、お前を迎えに来たんだよ!」
おれは叫ぶように答える。イリスは力なく首を横に振った。
「だめ、です。わたし、は……この手を血で汚した、魔女。ラッドくんと、一緒にいる、資格なんて……ありません。わたし、は、穢れた存在。いらない子。誰、も……わたしが、生きることを、望まない」
イリスが途切れ途切れに言葉を繋ぐ。自分自身をすり潰していくかのような、自己否定の言葉を。
こいつはきっと、自暴自棄になって悲嘆の魔女に自分を捧げたんだ。何もかもが嫌になって、暗い闇の中に閉じこもることを選んだんだ。
イリスは昨日、「さよなら」と別れの言葉を口にした。過去を知ってしまったおれのもとから永遠にいなくなるつもりだったのだろう。
だったらおれはこの子になんて言葉をかけたらいい? なんて言葉をかけたら、この子は自分を傷つける行為をやめるんだ?
いや、何も考えるな。ただ心の奥から溢れる気持ちを声に出すんだ。
おれだけが伝えられる気持ちが、きっとあるはずだ。
「関係ねぇよ! ああ、そうだよ、おれにゃ関係ねぇよ! おれが知ってるのは、おれが会ってからのお前だけだ。いっつもお腹すいたお腹すいたって子供みたいにうるさくて、おっきな鎌をぶんぶん振り回して、幸せそうに飯食って、他人を幸せを願える優しい女の子が、おれの知ってるイリスだよ!」
彼女の過去がどれだけ汚れていようと。
彼女の過去がどれだけ悲惨であろうと。
そんなのおれには関係ない。イリスはおれに生きる意味をくれた。何にもできない三流冒険者だったおれに、確かな充実感と喜びをくれたのだ。
「誰も生きることを望まないなんて、そんな悲しいことを言うなよ! ここにはいるんだ、お前に飯を食わせたくてたまらない死神専属料理人が! お前の隣を歩いて旅をしたいって本気で思ってる落ちこぼれ冒険者が、ここにはいるんだよ!」
おれがイリスに会った時、死神にご飯を作るだけの料理人にはなりたくないと自嘲したことがあった。だけど、今はそれでいいと思っている。だって、この小さな手を握っているだけでも、おれは幸せを感じているのだから。
だから今こそ言おう。
伝えようとして、伝えられなかったこの言葉を。
「イリス……おれは、お前に会えて良かった」
そう告げると、イリスの目が驚きで開かれた。
「お前が認めてくれたから、おれは変わることができたんだ。だから、ありがとう。おれを見つけてくれて、ありがとう」
おれは少女の手を強く握る。
思い返せば、出会いは最悪の形だった。おれが
クローディアの剣がイリスを刺し貫いた時、どうしようもない絶望が胸の中に広がった。命があるとわかった時は、心の底から安堵した。だからきっと、この少女は自分にとっての大切な人なのだ。どうしても別たれたくない、特別な人なのだ。
その気持ちに、ようやく気付いた。
そんな、単純な、気持ちに、ようやく。
「……なんで、そんなことを、言うんですか」
イリスが目を伏せ、震える声で言った。
「だって、わたしは、全部捨てたはずなのに……もう、何も、いらなかったはずなのに……そんなことを言われたら、わたしは、わたしは……!」
おれの手の上に、イリスが血に濡れた小さな手を重ねる。少女は最後の力を振り絞るように顔を上げ、おれの顔を見た。
真紅の瞳に宿った美しく儚げな光がおれを射抜く。
「ラッド、くん。こんな、わたしですが……血に染まって、穢れて、呪われた、薄汚いわたしですが……それでも、それでも……」
小さな口が言葉を紡いだ。
「それでも、あなたと生きることを望んでいいですか……?」
イリスは泣きそうな顔でわずかに微笑み、ゆっくりと瞼を閉じた。
少女の閉ざされた目の端から涙が溢れる。雫はゆっくりと頬を伝い、血に染まった赤黒い大地に落ちていった。
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