4-7、鼠の勇者
「イリス? おい、イリス……? どうしたんだよ、しっかりしろよ……!」
おれはゆっくりイリスの体を揺さぶりながら声をかける。だが、少女は目を閉じたまま反応しない。まるで精巧な人形のようだ。
震える手で、イリスの口に手をかざす。小さく開いた口から呼吸は感じられなかった。
嘘だ。
そんなはずがない。
イリスが死ぬはずがない!
「そ、そうだ……心臓は……!」
おれはイリスをそっと地面に寝かせると、祈る思いで胸に耳を当てる。痩せた体からは、聞き逃してしまうほどほんのわずかだが、弱々しい心臓の鼓動が感じられた。
よかった。まだイリスは生きている。どうにか生を繋いでいる。だが、このままでは鼓動が止まってしまうのも時間の問題だ。急いで治療をしなければ。
まずはこの場から離れて——
「隙を作ってくれた礼に少しだけ時間をくれてやった。だが、もうここまでだ。別れの挨拶はできただろう? この場から消え失せろ、ラッド」
背中から、氷のように冷たい声が響いた。
恐る恐る振り返ると、クローディアが血に濡れた剣を構え見下すような目でおれを見ていた。
ああ、おれは何を考えていたんだ。イリスを連れてこの場から離れるなんて、そもそもできるはずがなかったんだ。
「ま、待ってくれ、クローディアさん! イリスは……この子は、ブレアというこの島に巣食う魔女に体を乗っ取られているんだ。呪いを解くことができたら、また元に戻る。だから、だから……」
「だから見逃してくれ、とでも言うつもりか? 戯けたことを。イリアステラは甘言を用いて邪教を率いた魔女だぞ」
おれの言葉をクローディアは切り捨てる。
「邪教って言ってもさ……イ、イリスは親の言いなりにさせられてただけだ。本人は、そんなこと望んでいなかったんだ。本当だ……この子は自分から人を騙すようなことはしない」
「だとしても、火刑場で百人以上を殺した大罪人だ。どうあがいても処刑から逃れることはできない。くだらん問答はここまでだ。そこをどけ。どこぬなら、お前ごと斬り捨てる」
クローディアの目は本気だった。多分、どかなければ本当におれを殺すつもりだ。
いつもならここで鼠のように逃げ出していただろう。だが、今は違った。恐怖を上回る不思議な苛立ちがおれの中で渦を巻いていた。
「……そもそもお前らがこの子を追い込んだのが原因だろ」
おれはついに我慢ができなくなり、苛立ちを口にした。クローディアが眉をしかめる。
「なんだ? 何を言って——」
「お前らがろくに調べもせずイリスを殺そうとしたから、この子はそれに抗っただけだ……! 神様の名前を使って普通の子供を火炙りにして、お前らはただ正義をかざして暴力を正当化しているだけじゃないか!」
堰を切ったように、おれの口からは言葉が溢れてくる。
「一体どこに彼女の意思があった? 一体どこに彼女の悪意があったんだ? イリスはただ都合よく利用され、振り回され、犠牲にされただけだ! そんな子を救うこともできないなら、神様なんてただのお飾りだ。何が異端審問だ。お前らはただ、嫌いな連中を一方的に世界の敵だと決めつけて切り捨てているだけだ!」
「黙れ、異端が!」
クローディアが怒号と共に盾を突き出した瞬間、おれの天地がひっくり返った。盾から生まれた衝撃波で吹き飛ばされたと気づいたのは、地面を転がり木にぶつかって止まった後だった。
体を起こそうとして、激痛が走り失敗する。身体中が軋むように痛い。もうあちこちが壊れているのだろう。この場所に来る前にすでに満身創痍だったのだから。
「……これは慈悲だ。貴様はそこでイリアステラの処刑を見ていろ」
クローディアの声が聞こえた。
ふざけるな。勝手にイリスを殺すな。
何も知らないくせに、何も分かろうとしないくせに、おれの大切な人を奪おうとするな!
焦りばかりが先行するが、体がついていかない。地面に腕をついて上半身を起こすが、すぐに痛みが走り再びうつ伏せに倒れてしまう。
この状態からどうやってクローディアを倒し、イリスを救うことができるのか。
方法はある。一つだけある。
だが、それは決して後戻りできない選択肢だった。文字通り、自分の身を投げ打つ行為だ。おれはまだ迷っている。その可能性に手を伸ばすことをためらっている。
くそっ。なんでこんな時に弱気になっちまうんだ。イリスを助けたいはずなのに、それは本心なのに、おれの中の臆病な部分が一歩を踏み出すことを許そうとしない。
動け、動けよ、おれの体……!
悔しくて涙が流れる。何もできない自分が情けなくて、悔しくて、嫌になる。
なんで、おれの体は動かないんだ。
なんで、なんで——
『たくさんの喜びをありがとう。ラッドくん、あなたに幸運が訪れますように』
照れ臭そうなイリスの声が聞こえたような気がして、おれははっと顔を上げた。
そこには、小さな
大切な、大切な、おれの宝物。
「う、あぁ……!」
おれは声にならない声をあげ、手を伸ばして
その手を強く握りしめると、全身に力を込めて立ち上がる。体が軋むように痛い。気を抜いたらすぐにでも倒れてしまいそうだ。
一歩ずつ、一歩ずつ前に進む。壊れかけたおもちゃのようにぎくしゃくと、それでも確実に進んでいく。
「痛い、苦しい」
歩きながら、おれの口から本音が溢れ出た。
「辛い、もう嫌だ……!」
この弱音は間違いなくおれの心だ。
体が痛い。前に進むのが恐い。もうたくさんだ。もう全部、全部全部全部投げ出して楽になってしまいたい。
だけど
だけど、それでも——
「イリス、必ずそこに行くから……お前を一人ぼっちにはさせやしないから……!」
こんな苦しみなんて、彼女が感じているもののほんの数百分の一程度のものだろう。ただ体が痛いだけなら、心をぐちゃぐちゃに壊されたイリスの苦しみとは比べ物にならないくらい軽い。
だから行け、進め。
誰かのために
いや、このおれ自身を変えるために——進め!
「おい、聞こえてるんだろ——。デバガメはお前の趣味だもんなあ。おっと、お前は亀じゃないか。まぁ、いいや……まだおれに適性があるのなら、さっさと——をしやがれ!」
これがおれの最後の手段。残されたちっぽけな可能性。
おれが途切れ途切れに呟くと、どこからか笑い声が聞こえてきた。直後、自分の体に起きた変化に、おれは賭けに成功したのを確信した。
これでいい。
すでに覚悟はできている。イリスとともに、地獄に落ちる覚悟が。
「これより処刑を執り行う。
地面に横たわるイリスの前で、クローディアが高々と剣を掲げて処刑の文句を宣言する。
騎士や
「罪を償え、魔女イリアステラ。貴様に神の慈悲があらんことを——」
クローディアは掲げた剣を、イリスの首めがけて迷いなく振り下ろす。
瞬間、金属同士がぶつかり合う高い音が響き、闇の中で火花が散った。
クローディアの目が驚愕で見開かれる。なぜなら——おれが
「させるかよ!」
おれが力を込めて押し戻すと、クローディアはあっさり後退した。いや、おれが後退させたのだ。
「馬鹿なっ、私の攻撃を弾いたのか! 貴様の一体どこにそんな力があったと言う……の、だ……?」
クローディアは言葉の途中で、おれが何をしたのか察したようだった。おれの隣に浮かんでいるものを見たからだろう。
『はぁい。初めましてかしら、処刑人さん? アタシをご存知?』
おれのすぐそばでフワフワ浮かぶ蛇が、おどけたような口調でクローディアに話しかけた。
そう、こいつは
「暴食とも、傲慢とも違う、第三の悪魔だと? 蛇の形象は……嫉妬か! まさか、貴様……悪魔と契約を交わしたと言うのかっ! あんな魔女のために、悪魔憑きに身を落としたと言うのか!」
クローディアの叫びに、おれは笑みを作って頷いた。
「あぁ、そうだよ。こいつはどうやら嫉妬にまみれたおれの心が大好物らしいからな。でもこうでもしないと、おれはあんたと対等には戦えないだろ? あんたは強くて! おれは弱いんだからなあ!」
おれは飢えていた。
焦がれていた。
無力な自分が許せず、力に嫉妬していた。ゆえにおれは、この身を焦がすほどに渇望したのだ——イリスを救えるだけの力を寄越せと!
『契約成立よ! 我が名は
何を叫ぶか。
そんなものは最初から決まっている。
おれはずっと苛立っていた。イリスの過去を知った時から、正体のわからない苛立ちがずっとおれの中にあった。
自分の子供を巫女として祭り上げ金儲けの道具にしたイリスの親も
勝手にイリスに希望を押し付け不要になったら見限った教団の連中も
邪教を率いたというだけでイリスを火炙りにした騎士団も
弱みに付け込んでイリスの体を乗っ取った魔女も
罪を決めつけイリスを剣で刺し貫いたクローディアも
どいつもこいつもくそったれだ!
自分の都合ばかりを並べ立てて、イリスを食い物にしやがった。あの子がボロボロになるまで突っついて、小さな願いも踏みにじりやがった。
だから叫ぶ。
おれの苛立ちを
おれの怒りを
燃える業火の感情と一緒にぶち撒ける——
「てめぇら、よってたかってイリスをいじめてんじゃねぇえええええええええええええええええええええええええ!!!!」
さぁ、戦え。
こっからはお前の時間だ、ドブネズミ。
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