終幕、世界一おいしい食べ物

 

    ◇  ◇  ◇


 夕刻。


 おれは船に揺られながら、山の向こうに沈みゆく太陽をぼんやり眺めていた。

 街に戻ったおれたちはしっかり朝飯を食べて、五月女王祭メイクイン・フェストに参加した。

 露店で買い食いをしたり、大道芸を見たりして心ゆくまで楽しんだ。イリスは、食べる時以外はおれの手を離そうとせず、小さな手から感じる彼女の温もりはおれを幸せな気分にさせてくれた。


 そんなイリスは今、船の端に座って離れゆく島をじっと見つめている。名残惜しさもあるだろうが、遠くの動かないものを見ていれば船酔いにならないと教えられたからである。

 忠告はしたのに、結局彼女は乗船直前まで飯を食い漁っていた。できれば行きの船の時のような騒動にならないことを祈っている。


「……で、レヴィアタンよ。約束は覚えているよな」


 おれは蛇の姿で船の柵に巻きついている嫉妬の悪魔レヴィアタンに目を向けた。


『え、えぇ……一体なんのことかしらぁ……?』


 嫉妬の悪魔レヴィアタンはわざとらしく目を逸らす。


「とぼけンなよ。傲慢の悪魔ルキフェルを何とかしたら、暴食の悪魔ベルゼビュートとの交渉を手伝ってくれるんだろ。悪魔は嘘つかないんじゃなかったか?」


 当の傲慢の悪魔ルキフェルは力のほとんどを失い、かわいらしい猫の姿と化している。甲板でレンが操る猫じゃらしのおもちゃを夢中になって追いかけていた。ああなってはもう、神に抗うだのなんだのとは言ってられないだろう。


『う〜ん、痛いところを突くわねぇ。わかったわ、しっかり間を取り持ってあげる……聞こえてる? ちょっと来なさい、蝿野郎』


 嫉妬の悪魔レヴィアタンが呼ぶと、蝿の姿の暴食の悪魔ベルゼビュートが何もない空間に出現した。


『何の用だ、蛇女。我輩は糧食のチーズを貪るのに忙しいのである』


『この子があんたと話したいことがあるんだってさ。聞いてやりなよ』


『フン。小僧と話すことなど、食事のリクエストくらいしかないのである。さらば……』


 暴食の悪魔ベルゼビュートが去ろうとすると、嫉妬の悪魔レヴィアタンが口を開け、シャアアアと声を出した。威嚇された暴食の悪魔ベルゼビュートは体を震わせる。


『わ、わかったのであるっ。それで、何の用だ、小僧』


 おれは少し離れた場所にいるイリスに目をやると、声を抑えて尋ねた。


「単刀直入に聞くけどさ。お前がイリスにかけた呪いを解く条件……世界一おいしい食べ物って一体何なんだ?」


 この旅の目的は、イリスの呪いを解く世界一おいしい食べ物を探すことだ。先に答えを聞いてしまうのは少し面白みがないような気もするが、知っておくに越したことはない。

 案外、身近にあるものなのかもしれないのだ。おれにとっての世界一焦がれたものが……その、まぁ、なんだ、近くにいたように。


『……フム。小僧、貴様には話しておくべきかもしれないな。此度の一件のように、我輩だけでは手に余る事態がまた起こるかもしれぬ』


 暴食の悪魔ベルゼビュートが羽を動かし、おれの顔の横に来た。どうやら広めたくない話であるらしい。


 ついに聞ける。

 世界一おいしい食べ物が、何なのか。


『小僧。貴様は自分にとって最も美味であると思い、かつ世界の全ての人間が最も美味であると認める食べ物がこの世にあると思うか?』


 突然の問いかけに、おれは動揺する。

 おれも世界中の人々も世界で一番おいしいと思う食べ物? そんなもの、あるわけがない。


「……まさか、お前は最初から解くことが不可能な呪いをかけたってのか? そんな詐欺みたいな契約を悪魔は平気でするのか?」


 おれは込み上がる怒りを抑えながら言葉をぶつけた。だが、暴食の悪魔ベルゼビュートは気にしていないようだった。


『なに、実現可能なことさ。いや、とでも言った方が正しいか』


「なんだ……お前は一体何を言っているんだ……?」


 おれは目の前の悪魔から、底知れぬ恐怖を感じるようになった。

 開けてはいけない扉が目の前にあり、それをくぐると二度と後戻りできないような恐怖だ。

 引き返せ——おれの本能がそう語りかけてくる。だが、暴食を司る悪魔は話を止めることはなかった。


『結論から話せば、あの娘の両親が言っていたことは八割がた真実だったのだ。あの娘は本物の神の器であり、この黄昏の世界を導く巫女なのだ。あの夫婦は啓示を受けて、行動を始めただけだったのだ。無論、そんな娘を気味悪く思い、虐待していた事実もあるがな』


 裏返る。

 裏返る。

 おれが信じていた現実が、容易く裏返っていく。


「ま、待ってくれ! イリスの両親は金儲けのために自分の娘を巫女に仕立てたって……」


 最初にそう説明したのは誰だ?

 新たな神を認めないクローディアだ。もし、騎士団の連中が「お前は両親の金儲けの道具のために利用された哀れな娘だ」とイリスに吹き込んでいたなら、彼女はそれを信じるだろう。彼女は、自分が大それた存在だなどと考えもしなかったからだ。


『そもそも、此度の出来事さえイリスという巨大すぎる器がなければ、魔女ブレアの企みがあそこまで形になることはなかったのだ。おかしいと思わなかったのか? 我ら悪魔でさえ、契約を交わすことができるのは一人か二人だというのに、悲嘆の怪物は何百という人々の感情を受け止めてみせた。あれこそ神の技の片鱗だ』


 おれは、傲慢の悪魔ルキフェルの力を吸収したから感情の契約ができるようになったのだと思っていた。だが、悪魔の力はいわば水を通す筒のようなものだったのだ。筒を通して流れた水は器に溜まる。

 悪魔の契約は一人か二人が限界だという。だが、ブレアは世界の全ての悲しみを吸収すると言っていた。それだけ大きな器があったからこそ、できると確信したのではないだろうか。

 イリスという——巨大な器が。


『力を失いつつある秩序の神では、もはや世界を守ることなどできん。すぐにでも混沌の神に飲み込まれてしまうだろう。そうなった時に、新たな太陽となることができるのは現状、あの娘しか存在しない』


「いや、新たな太陽って……何なんだよ、それ……」


 黄昏のとき

 今この時代が秩序の神が力を失い、混沌の夜に包まれる間の時間だとしたその言葉を最初に言ったのは誰だったか。イリスを巫女として崇める『黄昏ノ教団』だ。


 嫉妬の悪魔レヴィアタンは言っていた。悪魔の輪廻転生サイクルが異常に早まっているのは、人々の不安や嘆きが魔力を増幅させているからだと。


 クローディアは言っていた。もはや一刻の余裕もないこの世界では、悪の芽は見つけ次第排除していかなければならないのだと。


 皆が皆、世界の滅びを感じている。

 混沌の夜が足音を立てて近づいていることから、皆が目を背けている。

 だが、この悪魔はイリスこそが新しい神になりうる存在だという。おれは暴食の悪魔ベルゼビュートが悪魔らしく甘言を用いているのだと思いたかった。だが、皮肉にもこの島で起きた出来事が、イリスの特別さを証明していた。


 じゃあ


 まさか


 世界一おいしい食べ物って……




『もう理解したであろう。あの娘イリスが神として世界を統治した時に口にする食べ物こそ、紛れもないだ』




 夕日が完全に山の向こうに沈んでいき、空が段々と暗さを増していく。夜の空が丸ごと落ちてくるかのような感覚に襲われた。


 信じられない。信じたくない。しかし、信じるしかない。

 おれは自分が巻き込まれた話の途方もない大きさに、めまいがした。


 昔、ある悪魔は「栄華の階段を登りつめ、ついに太陽の上に立った時に魂をもらう」と商人と契約し、実際には絨毯にあしらわれた太陽の刺繍に乗った時に魂を奪ったという話を聞いたことがあった。言葉を大きく見せて、その意味を小さくする修辞法レトリックだ。

 暴食の悪魔ベルゼビュートはあろうことか、堂々と言葉も意味もそのままにして契約を交わした。イリスがそれだけの力を持ったことを見越して。


 おれは不意に森の中で彼女と出会った時の記憶を思い出した。

 あの時、彼女の姿を見たおれはを何と間違えてしまったのだ? どんな印象を、彼女に重ねて見てしまったのだ?









 あぁ、なんてことだ。







 おれは最初から知っていたんじゃないか——これがの物語だってことを。

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死神イリスと旅の飯々(めしめし) 三ツ葉 @ken0520

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