5-5、悲しみの記憶を辿って

 

 おれはすぐさまイリスのもとへ駆け寄ろうとした。

 行く手を阻む、張り巡らされた血の色の糸に手を触れる。瞬間、おれの頭の中に見たことのない光景が浮かび上がってきた。


 貧相な服装をした男女が、おれを見下ろし何かを言っている。話の内容は聞き取れなかったが、心の中で聞き覚えのある少女の声が響いてきた。


『オトウサン オカアサン ウソヲツクノハ ヨクナイコトダト オモイマス』


 この声はイリスのものだ。しかし、おれが知っている声よりもずっと幼く聞こえる。

 まさか、今おれが見ている光景はイリスの記憶なのだろうか。この男女はイリスの両親で、自分の娘を巫女に仕立て上げようとしている場面ではないだろうか。

 首を横に振ると、父親が容赦なく顔を殴ってきた。イリスは立ち上がると殴られた箇所をさすり、震えながら頷く。

 そこまで見たところでイリスの記憶の光景は霧のように消えた。おれが触れた血の色の糸が砂のように崩れていく。


「まさか、この糸全部……イリスの悲しみの記憶なのか?」


 おれは改めて無数の糸に縛り上げられ宙に吊るされるイリスを見上げた。この糸が全てが彼女を縛る悲嘆の感情なのだとしたら、どれだけ深い悲しみに囚われていたのだろう。


 早く彼女をここから救い出さねば。

 次の糸に触れようと手を伸ばした時、突然聞いたことのない声が響いた。


「邪魔をしないでもらえるかしら」


 声の方を向くと、イリスを捕らえる蜘蛛の巣よりもさらに上に、少女が浮かんでいた。長い水糸の髪や顔立ちはサフィアにそっくりだが、目つきがやや鋭い。おれが彼女の正体に思い至ったと同時に、後ろで待機していたサフィアが彼女の名前を叫んだ。


「ブレア!」


 魔女ブレア。今回の出来事の全てを裏で操っていた黒幕だ。こうして本体と相対するのは初めてのことになる。


「ねぇ、ブレア。ようやく話すことができたわね。こんなこと、もうやめましょう。誰も……も悲しんでいるわ」


 サフィアが言ったあの人とは、姉妹が恋をした島の外から来た少年のことだろう。


「キャハハハ! あの人はもうどこにもいないわ。そしてわたしの悲しみだけはここに残り続ける。世界中の悲しみが集まって、わたしは神様になるの。どう、素敵でしょう?」


 ブレアが高笑いをしながら言った。


「正気に戻って! あなたは呪われているの。自分が生み出してしまった悲しみの呪いに! 私は知っているわ。本当のあなたはそんなこと望んでいない!」


「あんたにはわからないわ、サフィア! みんなに愛されて、真っ直ぐ育ったあなたには! 目つきが悪いっていじめられて歪んで育ち、好きな人にも振り向いてもらえなかった惨めなわたしの気持ちは絶対に理解できないわ!」


「違うの、ブレア。それは……」


「うるさい!」


 魔女ブレアの手から放たれた黒の波動がサフィアの体を直撃した。サフィアは吹き飛ばされて、闇の向こうに消えていく。

 途端に、おれの心に悲しみの感情が侵入してくる。サフィアが近くからいなくなり、おれを守ってくれていた力が失われてしまったからだ。


「あんたももう諦めなさい、ラッド。わたしが神様になれば、この世界から悲しみは消える。そしたらこのかわいそうな娘は悲しみの人生から解放されるのよ。彼女のためを思うなら、そうするべきではなくて?」


 ブレアの視線がおれに向けられた。その目の氷のような冷たさに一瞬怯んだが、全身に力を入れて心を保つ。


「ふ、ふざけるな! お前の言う解放ってのは死ぬことと同じじゃないか! お前を神様になんてさせるもんか!」


「死ぬのではないわ。わたしと完全に同化するの。悲しみのない世界を作るための尊い犠牲になるのだから、この娘にとっても本望だと思うわ」


 ブレアの言葉に、おれは自分の心が再び燃え始めたのを感じた。


「……お前みたいなやつらに弄ばれたせいで、イリスは傷ついたんじゃねえか! イリスは道具じゃない。ただの……ただの、おれが愛した優しい女の子だ! もうこれ以上、彼女を傷つけさせない。おれが救い出してみせる!」


「キャハハハハハ! 無駄よ! この娘を縛る糸は全て、彼女が味わった悲しみの記憶。一本に触れただけで、あなたの心は焼き切れそうになったでしょう? 糸をかき分け彼女のもとにたどり着くことなんて不可能よ! それに、彼女が目覚めることもないわ。哀れな人生しか歩んでいないこの娘が、生きたいと思うことは絶対にないのだから!」


「だったらいい言葉を教えてやるぜ……どんなものも、食ってみなきゃわかんないってな!」


 おれは構わず手を伸ばし、血の色の糸を掴む。再びおれの意識はイリスの記憶の中に飛び込んでいった。


 次に見た記憶は、壇上から『黄昏ノ教団』の信者たちを見下ろしている光景だった。巫女として崇められていた頃だろう。すぐ近くでは、あのローブを着た女性が何やら熱心に演説をしている。


『ウソツキ ウソツキ ワタシハナニモシラナイ ナニモデキナイ ダカラミンナ ソンナメデワタシヲミナイデ アナタタチガミテイルノハ ウソノワタシ ダマシテゴメンナサイ』


 イリスが抱えていた思いが直に伝わり、心が締め付けられてくる。

 人を騙すことに罪悪感を覚えながら、自分を押し殺して巫女のように振る舞う少女の苦しみが嫌という程感じられた。


 その光景が終わった頃には、おれは息が上がって立っているのがやっとの状態だった。イリスが味わった悲しみが、凝縮されたおれの中に詰め込まれてくる。

 なるほど、確かに心が焼き切れてしまいそうだ。他人の苦しい記憶の追体験も楽ではない。


 だが、まだイリスには届かない。もっと近づかなければならない。体を引きずるように歩き、おれはまた記憶の糸に触れた。

 今度は両手に枷をはめられ、縄に繋がれて無理やり歩かされている光景だった。道の両脇では怒れる群衆が口々に何かを叫んでいる。


 これはきっと騎士団によって異端として捕まり、連行されている時の記憶だ。ここに来るまでにかなり痛めつけられたのか体はボロボロで、素足は皮が破れて血を引きずっていた。そんな状態にもかかわらず、群衆からは石が飛んできて容赦なく体を打ち付ける。


『ゴメンナサイ ゴメンナサイ ワタシガワルカッタデス ミンナヲ ダマシテゴメンナサイ アヤマルノデ イタイノハヤメテクダサイ イタイノハイヤデス イタイノハヤメテクダサイ……』


 気がつくと、おれは地面に倒れていた。

 自分の体は傷ついていないはずなのに、彼女が味わった痛みがまだ感覚として残っている。話では聞いていたのに、現実は想像以上に残酷だった。人間がこれほど他人を傷つけることができるなんて思ってもみなかった。


 おれはふらふら立ち上がると、また彼女に向けて歩き出した。まだおれは戦える。まだおれは、彼女の悲しみを食らうことができる。

 記憶の再生が始まる。

 イリスの小さな体は磔にされていて、今にも足元の薪に火が放たれようとしていた。またも眼に映るのは、怒号を上げる群衆たち。これは処刑の記憶だろう。

 処刑人がついに薪に点火した。炎が燃え広がりイリスを焼く。


『アツイ、クルシイ。イタイ、イキガデキナイ。タスケテ、タスケテ、タスケテ……!』


 彼女の悲痛な叫びにおれは耳を塞ぎたくなった。だが、両手の感覚は縛られて自由に動かすことができない。おれ自身も炎に焼かれる痛みが伝わってきた。


『カミサマ カミサマ タスケテクダサイ ワタシハガンバリマシタ タクサンガンバリマシタ オトウサント オカアサンノ イウコトヲヨクキイテ ミンナガシアワセニナレルヨウニ ガンバリマシタ ダカラカミサマ タスケテクダサイ コノクルシミカラスクッテクダサイ』


 イリスの無垢な祈りは、誰にも届くことなく炎にかき消されていく。

 おれはただ、その光景を見ていることしかできなかった。

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