4-10、夜明けを目指して
あたりは静寂に包まれた。まるで時が止まったようだった。
誰も、目の前で起きたことを真実として受け止められないようだった。即ち——
「う、嘘だ……あのクローディア様が……!?」
「不敗の無敵要塞と呼ばれた方だぞ……! それが、あんな細身の小僧に敗れたとでも言うのか……!?」
驚愕と不安の声が、騎士たちの間でさざ波のように広がっていく。
信じられないのも当然だ。おれだって、あのクローディアが目の前で倒れているなんて想像することもできなかった。
「や、やった! やったよ、ラッド! 君は勝ったんだね! クローディアさんに勝ったんだね……!」
イリスを守って奮闘していたレンが、槍の構えを解いて喜びの声をあげた。おれはその声を聞いて、ようやく自分が本当にクローディアに勝利したことを理解した。
そうか、おれは、本当に勝ったんだ。
これでようやく終わったんだ。あとはイリスを背負って騎士たちを振り切り、山を下れば大丈夫だ。身を潜めて傷の回復を待ち、どうにか船に乗って逃げればいい。
そうすれば、また元の日々に戻る。
イリスと、旅をする日々に——
『まだだ! 小僧、まだ終わってなどおらぬ! 貴様が騎士と戦っている間に、最悪の事態が訪れようとしているのだぞ! 気を抜いてはならん!』
急に声が響き、おれはハッと我に返った。
気がつくと、おれの周囲を蝿の姿をした
「終わっていないって……どう言うことだ? だってもう、イリスを殺そうとしたクローディアは倒したんだ。後の騎士たちなんて有象無象だ。心配することなんて……」
いや、待て。
なぜまだ
イリスは正気に戻ったのではないのか? 魔女ブレアの支配から解かれたのではなかったのか?
おれはイリスが倒れていた場所に目を移す。地面に横たわっているイリスの体に、何百もの光る糸が繋がっているのが見えた。イリスの体がぼんやりと紫色に光り出し、まるで糸に引っ張られていくかのように空中に浮かんでいく。
「レン、後ろだ! イリスの様子がおかしい!」
おれが叫ぶと、レンは後ろを振り返った。
「イリスちゃん、どうしたの!? もうあなたを傷つける人はいないんだよ! そんなところに行かないで、戻ってきて、イリスちゃん!」
レンが空中に手を伸ばすが、イリスの反応はなかった。
光る糸はイリスの体に絡みついていき、自由を奪う。その背中から黒い翼が再生し、さらに黒の巨腕が伸びた。
変化はそれだけではなかった。黒い煙がイリスを内側に閉じ込め、さらに膨れ上がっていく。翼と腕だけがあった場所に、まるで蛇のような細長い胴体がついた。最後にそこから人間に似た頭が生えてくる。全てが黒く染まっていたが、涙を流す女性のような顔に見える。
それはまさに怪物だった。
手を伸ばせば天に届くのではないかと錯覚するような巨大な漆黒の怪物が、月のない夜空を背に誕生したのだった。
『アァアアアアアアァァァァアアアアアアア!!!!』
怪物は口を開き、泣き叫ぶような金切り声を大音量で響かせる。声は衝撃波となって、森の木々を揺らした。
「あれは、一体、なんなんだ……? なんで今更、あんな怪物が生まれやがるんだよ!」
おれは耳を塞ぎながら、半ば自棄になって疑問を叫んだ。
『……あれが悲嘆の魔女が目指した姿だ。貴様がそこの騎士と戦い時間を稼いでいる間に、この場に集った者どもと悪魔の契約を済ませたのだ。貴様も見ただろう、光の糸を』
悪魔は人の感情を食らって自分の力とする。何百という悲しみの感情を吸収し、悲嘆の悪魔はあの姿となったのだろう。
——悲嘆の怪物。
イリスという器を核として、
いや、皮肉にもイリスを守ろうとしたおれの行動が、この結果を招いてしまったのか。
「悪の芽、は……わずかな時間で、開花してしまう、ものだ」
かすれた声が聞こえたので振り返ると、木の幹を背に上半身を起こしたクローディアが口から血を流して言葉を紡いでいた。
「刈り取れる、うちに、刈り取らねば、奴らはすぐに……力を得る。私とて、断罪する悪の中に……同情すべき、悲運な者が、いることくらい、知っている。だが、誰かが、やらねば、ならぬのだ……誰かが、根本から、断たねばならぬのだ。この、壊れゆく、世界は……それほど、危うい均衡の上で、成り立って、いる……」
そこまで話し、クローディアは見下すような笑みを浮かべた。
「どうだ……これが、お前の、望んだ結果か……? 悪魔と契約し、私を倒し、辿り着いた未来はここか……? 答えろ、ラッド。貴様は、一体、何がしたかったのだ。この、悲しみに満ち溢れた、無月の世界が、貴様の願いだったのか……答えろ、ラッド!」
おれはクローディアの迫力に押され、思わず目を逸らした。
だがすぐに視線を戻す。自分が勝者であることを証明するように。
「……明日はさ、お祭りなんだ」
おれは声を震わせながら言った。これが精一杯の虚勢だった。
「いろんな屋台が出てさ、たくさんお菓子や食べ物が売られるんだ。おれは、そこにイリスを連れてってやりたい。きっと、すごく喜ぶと思う」
話しているうちに、両手で串を持ったイリスが頬張りながら料理を食べている姿が容易に想像できて笑ってしまった。
そうだ。それがおれの望む未来。辿り着きたい世界だ。
だから——
「あの怪物、おれがなんとかしたらさ……一日だけイリスのことを見逃してくれよ。それが、おれの願いだ」
クローディアは何も答えなかった。唖然とした様子で、おれの顔を見ていた。きっとおれが何を言ったのか理解できなかったのだろう。おれも自分が何を言ったのかよくわかっていない。
だけど口からすんなり出た言葉なのだから、きっとこれがおれの本心なのだろう。
あの悲嘆の怪物が生まれたことで、おれはクローディアへの交渉材料を手にすることができた。うまくいけば、イリスは明日の祭りを思う存分楽しむことができる。
だから、全てはうまくいっている。おれが望む未来に、おれの意思で近づけている。
あと少しじゃないか。
あと少しで、
戦え——夜明けはもうすぐだ。
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