1-7、巨神狼〈フェンリル〉

 

「な、なんだよ、こいつは……! なんなんだよ……!」


 おれは腰が抜けた状態のまま立ち上がることもできず、銀色の巨大変異狼ワーウルフを見上げていた。

 通常の個体と比較しても、三倍以上の大きさはあるだろう。つまり人間の五倍の体躯だと言うことだ。本来の意味での怪物としか表現できない。

 〈黄昏のとき〉が噂に上がるようになった背景には、ここ最近で次々と新しい強大な怪物が発見されていると言うことがある。こいつもその一匹なのだろうか。見るものを圧倒するその存在感は神々しさすら感じる。


 巨大変異狼ワーウルフが血の滴る手を広げ、おれを掴もうと無造作に手を伸ばす。

 確実な死が目の前に迫っても尚、おれは動けずにいた。

 くそっ。動け、動けよおれの体!

 なんで、おれは……なんでおれはこんなに役立たずなんだ!


「させるかぁ!」


 おれに向かって伸びていた巨大変異狼ワーウルフの手が、横から加わった衝撃によって弾かれる。

 鋭い声の主はレンだ。

 彼女が短槍で巨大変異狼ワーウルフの手に打撃を加えたのだ。


「ラッド、立ちなさい! 立って、後ろに下がるの! こいつの相手はあたしが……いや、あたしたちがやる!!」


 レンが顔だけ振り向き叫んだ。

 彼女に続き、次々と武器を構える冒険者たちが前に出る。巨大変異狼ワーウルフの前に立ちはだかるのは、纏う空気が違う歴戦の冒険者ばかりだった。その中には大斧を持つゴートンの姿もある。


組合ギルドより戦場の冒険者たちに通達します! 乱入してきた巨大変異狼ワーウルフは暫定的に巨神狼フェンリルと命名。依頼クエストの最大目標に設定すると共に、複数の冒険者で対処に当たる群雄戦レイドバトルへと移行します!」


 丘の上に立つ組合ギルド職員の女性が声を張る。彼女の声が草地全体に響き渡っているのは、秩序の神様から授かった〈拡声ヴォイス〉の神術を使っているからだろう。


「報酬は討伐した者に金貨二十枚! 援助アシストには金貨五枚! その他貢献度に応じて別途報酬もあります。また、別の戦場に散っている冒険者に応援を要請しますので、敵わないとわかった時には時間稼ぎに徹してください!」


 職員の声に呼応して、冒険者たちが武器を頭上に掲げて声を上げる。冒険者の士気を上げるのは容易い。彼らのやる気は報酬の額に比例する。


『ウルルルルルォオオオオオン!!!!』


 巨神狼フェンリルが咆哮し、金色に光る眼を冒険者たちに向けた。眼光に威圧され、前線に出た冒険者の半分が体を硬直させた。しかし残る半分が果敢に武器を振り上げ、怪物の巨体に迫る。


 だが、巨神狼フェンリルは予想外の行動に出た。自由になっている両手を地面に付き、四足の姿勢を取る。

 次の瞬間、大気が震えた。

 巨神狼フェンリルの巨体が一度消え、冒険者の集団の真ん中に姿を現す。牙の間には、たくましい体つきの女性冒険者が咥えられていた。


「あ、え……?」


 女性冒険者は何が起きたか理解していないようだった。上半身だけを巨神狼フェンリルの口の外に出しながら、困惑の表情を浮かべている。

 ありえない。速すぎる。巨神狼フェンリルの一連の行動を、おれはほとんど目で追うことができなかった。あの巨体で目に止まらない速度で動くには、どれだけの脚力が必要なのだろうか。


「彼女を救え! 矢を射るんだ!」


 判断能力を取り戻した冒険者が声を上げる。その声に反応し、弓使いが矢を放つ。続いて神術使いが秩序の神から与えられた〈火炎球フレア〉の術を撃った。

 巨神狼フェンリルの銀色の体に矢が突き刺さり、〈火炎球フレア〉が小爆発を起こす。だが、怪物は少しも怯まない。痛みを感じる素ぶりも見せない。


「嘘……嫌だ、助け——」


 女性冒険者が言葉を言い終わる前に、巨神狼フェンリルの口が閉じられた。彼女の半身はちぎれ、恐怖で目を見開いた表情のまま地面に落ちてそれきり動かなくなる。

 巨神狼フェンリルの牙の隙間から、赤い血が滴り落ちる。

 巨体に似合わぬ敏捷性、柔らかくそれでいて鋼鉄のように硬い毛皮。ありえない、なんだこの強さは。通常の変異狼ワーウルフなど、比較にもならない。


 おれは宿の女将さんの話を思い出した。

 かつてこの世界が混沌に包まれていた時代。この森は狼が支配する場所だった。そして〈黄昏のとき〉が訪れつつある今、古代の狼が領土を取り戻すために目覚めると。

 女将さんが話していた「古代の狼」とは、今おれが目にしている巨神狼フェンリルのことなのではないだろうか。


 伝承で語り継がれた脅威の存在。混沌の時代の支配者の一角!

 そんな物語上の怪物を相手にして、敵うはずがない。

 同じことを考えているのだろう。おれのほかにも、戦意を失い絶望の表情を浮かべている冒険者があちこちにいる。

 いくら高い報酬を提示されても、明確な死を前にして戦い続ける冒険者は少ない。当たり前だ、獰猛な獣の口の中にある黄金に手を伸ばす者などいないのだから。

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