1-5、夜明け前の空は黄昏に似る
* * *
おれは夢を見ていた。
持つ者が王になれると言われる伝説の剣を手に持って、巨大なドラゴンや
だけどこれが夢だということをおれは知っている。
現実のおれはどうしようもない弱虫で、怪物に近づくことすらできない。みっともなく震えるばかりで足が動いてくれないんだ。
おれは英雄になんかなれない。そんなことはわかっている。だけど、自分の中で大きく育った憧れはなかなか消えてくれない。
憧れは、呪いだ。
諦めて膝をつこうとしたその時に、幼き日のおれが背中から叫ぶんだ——「夢から逃げるなよ!」ってな。
——カンカンカン!! カンカンカンカン!!!!
何度も叩かれる鐘の音が響き、おれは目を覚ました。
「な、な、なんだぁ〜!?」
嫌な夢だったとため息をつく間もなく、ベッドから飛び起きる。木の窓を開けて外を見ると、空はまだ薄暗い。夜明け前の頃だろう。警鐘の音は聞き間違いや幻聴ではないらしく、よりはっきりと聞こえてくる。鐘の音の合間には奇妙な獣の遠吠えも混じっている。
間違いない。異常事態だ。
おれはゆったりした寝間着を脱ぎ捨て安手の皮鎧を着ると、壁に立てかけた剣の鞘を掴んだ。蹴飛ばすような勢いで扉を開けると、おれはまず二つ隣のイリスの部屋に向かった。
「おい、イリス! 起きてくれ! なんか街が変だ。何かが起きたに違いない」
そしてこの場合の何かというのは大抵は悪いことだ。だが、こういう異常事態でもイリスがいればなんとかなるだろうとの算段だった。
しかし当の死神少女は、起きてくる気配が感じられない。扉の向こうからは「もっと食べたい」「甘いは正義です」などとのんきな寝言すら聞こえてくる始末だ。
これではどうしようもない。とにかく今は状況を把握することが第一だ。
おれは階段を駆け下りて、宿の一階に来た。薄暗い室内で、誰かがうずくまって震えているのが見えた。
「女将さん!」
この宿を切り盛りする女主人だ。無償で台所やかまどを使わせてもらうなど、世話になっている。いつも大声で笑っている恰幅の良い女将さんが子供のように怯えていた。
「狼が、狼が来るんだ……!」
「どうしたんだ、女将さん。狼が来るって、どういうことなんだ?」
確かに聞こえて来る鳴き声は狼のようだが、それにしては怯え方が尋常ではない。
「混沌がこの世界を支配していた時代、このあたりの森は狼たちの住処だったんだ。今では森の奥に潜んでいるけれど、あたしたち街の住人は子供の頃からよく言われてきたんだ。いたずらをする子のところには狼が来て、餌にされちまうぞってね」
女将さんは顔を上げて、震える声で説明してくれた。
「今はほら、秩序の神様の影響力が衰えてきて再び混沌の世界に変わってしまうって言われているだろ。〈黄昏の
〈黄昏の
その言葉は数年ほど前から盛んに噂されてきた。
世界に平穏と安定をもたらした秩序の神様の力が衰え始めており、今は混沌の夜へと向かう黄昏の時間なのではないかということだ。
もちろん、根拠のないところから噂は生まれない。ここ最近、怪物の出現数が増えたりより強力な個体が発見されたりしているのだ。この事態は世界の果てに追いやった混沌の神が力を取り戻しつつあることの証拠とされている。
「森の奥から古代の狼たちが領土を取り戻しにきたんだ。あたしたちは皆、あいつらに食われちまうんだ……!」
女将さんは先祖代々受け継がれてきたであろう言い伝えを真に受けて過度に恐がっているに違いない。
だが、住民をこれだけ恐れさせる何かが森にいると考えた方がいいだろう。言い伝えや伝承は、過去の教訓が形を変えて残ったものなのだから。
「女将さん、おれは外に様子を伺いに行ってくるよ。一応、その……冒険者だからな!」
おれがそう言うと、女将さんの顔がさっと青ざめた。何か言い出そうとしたのを手で制し、言葉を続ける。
「それで、ちょっとお願いしたいことがあるんだ。もしも二階に泊まっている女の子が目を覚まして下に降りてきたら、こいつを渡しておいてほしい」
おれは荷物袋の中から、真っ赤に熟れたリンゴを三つ取り出して女将さんに渡した。
昨日作ったサンドイッチの余りだ。焼きリンゴにでもしようかと考えていたが、そんな余裕はなさそうだ。
「これじゃ足りないかもしれないけど、あの子が飯を食べたら百人力だ。そしたら何が起きても大丈夫なはず」
ぽかんとしている女将さんを残し、おれは宿を飛び出した。
非常事態を知らせる鐘の音は、さらに加速して街中に鳴り響いていた。
冒険者
武器を背負った冒険者たちが出たり入ったりと大忙しだ。それだけ大事が起きていることが予想できる。おれみたいな弱小冒険者がでしゃばったところで、果たして何かできることはあるのだろうか。
人混みを掻き分け
「あ、ラッド!」
「レン! 一体何が起きてるんだ。今着いたばかりで状況がわからないんだ」
おれが尋ねると、レンは難しい表情を浮かべて答える。
「……
「
被害が増えてきているとは報告されていたが、まさか集団で街を襲撃する事態にまで発展しているとは。さっきから聞こえてくる遠吠えは全て
「それで
それはずいぶん太っ腹な
「ラッドも行くなら、あたしと一緒に来る? そしたら手続きは不要になるけど」
レンの提案は魅力的だ。手柄を狙うならばすぐにでも動き出した方がいいし、何より手練れの冒険者のレンが一緒にいることで安全はある程度保証される。
しかし一方で懸念もあった。
「
「あたしたちは半分に分かれて別々の方面で戦うことにしたんだ。あたしは
かつての仲間と共に戦うのは荷が重い。またも醜態を晒して笑い者にされるかもしれないと言う恐怖が心の中で芽生えた。
俯きかけたおれの顔を、気合を入れるようにレンが両手でぱしっと叩く。
「気を強く持ちなよ、ラッド! 君は変わったんでしょ?
レンはおれの目を真っ直ぐに見つめながら話を続ける。
「確かに君は少しだけ人より臆病かもしれない。だけど、それだけ君が踏み出す一歩に価値はあるんだ。あたしはそう信じてる」
おれはレンの言葉に首を振ろうとした。本当は
だけどその気持ちをぐっとこらえ、おれは大きく頷く。自分に誓ったからだ。今度こそ、おれは変わるんだって。
「……行くよ。おれも一緒に連れて行ってくれ」
「そうこなくっちゃ」
レンが翡翠の瞳を細めた。
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