2-9、死神の一撃
病院から脱出したおれたちは、夜の街を走っていた。
空には黒い雲が流れ、月明かりを遮っている。薄い霧が足元に漂っていた。
おれはブランを背負いながら走っているため、思うような速さが出せない。病室に置いてきたら、ついでのように殺されてしまうので、こうするしかなかったのだが。
「イリス、後ろ来てるかっ!?」
おれは荒い息を吐きながら、後ろを警戒しながらついて来ているイリスに尋ねる。
「ううん。もう前に来たみたい」
「はぁ? それはどういう——」
おれが言い切る前に、迫るような濁った声が聞こえてきた。
「逃ィがさないと、言っただろォがァアアアアア!!!!」
建物の屋根から影が飛び降り、おれたちの行く手を遮るように着地する。
全身に針のような鱗が生えた悪魔憑きの青年モーリーだ。
なんて奴だ。建物の屋根を伝って、おれたちの先回りをしてきたのか。これが悪魔憑きの身体能力ということか。
「ずいぶん、コケにしてくれましたねぇ……ぼくに火をつけるなんて」
モーリーが隠しきれない怒りをにじませ、おれを睨む。
奴の体は鱗のあちこちが焦げたように黒く変色していて、傷を負ったことが外見からわかる。おれの
「もうぼくは遊ばない。雑魚のお前も、チビの悪魔憑きも、威張りちらすそいつも、残らず抉り殺してやる!」
相手の殺気に気圧されたおれが一歩下がると、逆に後ろにいたイリスが前に出てきた。
大鎌ファンタズマを正面に構え、モーリーを見る。
「わたしがチビ、ラッドくんが雑魚なら、あなたはなんですか? トゲトゲに隠れて自分を守ろうとする恐がりですか? あなたに触れようとする人も容赦なく傷つけてしまう、トゲトゲの鎧に」
イリスの言葉におれは驚愕した。お前、いつの間にそんな挑発が上手くなったんだ。
いや、挑発しているつもりはないのだろう。ただ思ったことを口にしただけで。
しかし、彼女の言葉はこれ以上なくモーリーの心に刺さったようだ。モーリーは激昂したように訳の分からない声を出し、体を掻き毟る。
「あぁああああアアアアアア!!!! うるさいうるさいうるさい! 誰もぼくのことなんて理解できない。だからぼくは強いんだ! 同じ悪魔憑きでもお前よりもずっとな!」
「なら試してみますか? 今、この場で。わたしと、あなた……どちらが相手を殺せるか」
黒い雲が流れ、月が顔を覗かせた。
妖しく光る三日月が、死神少女が頭上に掲げた大鎌と重なり合う。
「いいだろう。だが、忘れるな。お前の振るう弱々しい鎌は、ぼくの鱗に傷一つつけられなかったことを!」
モーリーの体を覆う針のような鱗が、さらに成長する。もはやその姿に、痩せ細っておどおどしていた頃の面影は感じられない。
だが、こうも思うのだ。その姿が、本当にお前がなりたかった姿なのかと。貧弱な自分を嫌って、たくましい男に憧れた。その先に行き着いたのが今の姿なのかと。
おれはモーリーに尋ねてみたかった。だが、もうおれの出る幕はないだろう。
悪魔憑きたちは、止まらない——
「きひひひひィィィィ!」
モーリーが狂った笑い声をあげて、イリス目掛けて突進する。
イリスはモーリーが振るってきた腕を大鎌の峰で受け止めると、身を翻して跳び上がる。続いて建物の壁を蹴り、モーリーの頭上から大鎌を鋭く振り下ろした。
「き、キヒィ!」
両腕を交差させて鎌を受け止めたモーリーが、苦しそうに息を吐く。
間違いない。さっきよりも深く攻撃を当てられている。やはり縦横無尽に動けてこそ、イリスは本来の力を発揮するのだ。
今の一撃で焦りを感じたのか、モーリーが初めて後退した。逃がさないとばかりに追うイリスに向かって、モーリーが両腕を前に突き出す。
奴が何を仕掛けようとしているか。おれは瞬時に察知した。
「イリス、横に跳べ!」
おれが叫ぶと、イリスが足を止めて横に転がる。次の瞬間、モーリーの両腕から針状の鱗が矢のように大量に放たれた。
先が尖った鱗が、イリスが立っていた場所に次々と突き刺ささっていく。石畳の床を貫通しており、その威力の高さに寒気を覚える。
「イリス、無事かっ!?」
イリスは転がった姿勢のまま、立ち上がれていないようだった。よく見れば、一本の鱗が彼女の左足に深々と刺さっている。
「大丈夫」
少し震えた声で言うと、イリスは無造作に自分の足に刺さった鱗を引き抜いて捨てた。出血がひどくなり、彼女の足元で流れた血が広がっていく。
「フン、本当は全身に串刺しにしたかったところだが、邪魔が入ったか。まあいい。もうちょこまかと動けないだろう。これで終わりだ!」
モーリーが再び両腕を前に突き出す。
おれは背負ったブランを地面に置く。一か八か
回転する大鎌が風を切って飛ぶ。モーリーは舌打ちをすると、前に出した両腕で防御姿勢になった。
「うぉおオオオオオ!!!!」
大鎌と鱗が激突し、甲高い音が鳴り響いた。威力に押されたモーリーだったが、なんとか腕で鎌を払いのける。
「悪あがきか! だが、もうお前に武器は無くなった。これで終わり——」
「終わるのはあなた。おいで、ファンタズマ」
イリスは足から流れる血を撒き散らし、モーリーとの距離を詰めていた。大鎌の名前を呼ぶと、弾かれて宙を舞っていた
イリスは大鎌を振りかぶり、そのまま薙ぎ払う。モーリーは両腕を交差させてそれを受ける。
一瞬の交錯の後——ちぎれ飛んだのはモーリーの両腕だった。
「ギィィィィィィィアァアアアアアアアアアアア!?!?」
モーリーの絶叫が夜の港町に響く。
膝をついて倒れたモーリーは、信じられないような目で石畳に転がる自分の腕を見た。
「な、なんで……どうして……あいつの攻撃なんか効かなかったはずなのに……!」
「鱗を飛ばせば、柔らかくなるに決まっています」
イリスが淡々と解説した。
モーリーの鱗飛ばしの攻撃は、まさに諸刃の剣だったわけだ。当たれば相手を一撃で仕留められる威力を誇る代わりに、自ら鉄壁の防御を薄くしてしまう。モーリーは自分の技の弱点に気づいていなかった。イリスはそこを狙ったのだ。
「ええと、こんな時はなんて言えばいいのかな。ざまあみろ? いい気味だ? えーっと……」
イリスが困ったように首を傾げ、おれを見る。すると何かを閃いたようだった。
視線を戻し、倒れたモーリーに向かって少しだけ誇らしく胸を張って告げる。
「見たか、一撃」
三日月を背に、血に濡れた死神少女が微笑んだ。
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