1-10、旅立ちの朝日

 

 皆、無言だった。

 その場にいる誰もが目の前で起きた出来事を頭で理解できていないようだった。歴戦の冒険者たちまでもが恐怖で顔を引きつらせている。


 どう見ても、恐ろしい怪物が討伐されたことを喜んでいる様子ではない。巨神狼フェンリルを超える怪物がそこに立っているかのような状況だ。

 血に染まったイリスが歩き出すと、冒険者たちは体を震わせ後ずさる。


「し、死神……悪魔に魅入られた死神だ……!」


 誰かが呟いたのをきっかけに、あちこちで彼女を恐れる声が吹き上がる。

 人は理解できないものを遠ざけようとする。きっとおれも、イリスのことを知らずこの場にいたなら同じような反応をしていただろう。

 それほどに、彼女は異常だった。


「わ、わかったぞ……! そいつは混沌の使いだ! そいつがこの街に怪物どもをおびき寄せやがったんだ!」


 叫んだのはゴートンだった。

 ゴートンは大きな体を子鹿のように震わせながら、イリスを指差して喚く。


「こっちに来るんじゃねぇ、化け物! 怪物が人間の振りをしやがって! こっちに来るんじゃねぇ!」


 半狂乱になったゴートンが、手近にあった石を投げる。石は放物線を描くと、イリスの前に転がった。直接当てないのは、それをする勇気がないからだろう。

 あちこちから、バラバラと石が投げられた。宙を飛んだそれらは力なくイリスの近くに次々と落ちていく。


 出て行け。

 こっちへ来るな。

 そういう意思表示だ。


 イリスは足を止めて、自分に飛んで来る石をじっと見ていた。やがて大鎌ファンタズマを背中に回して担ぐと、踵を返して歩き出す。街や森とは別の方向へ。

 彼女はおれに見向きもしなかった。もしかすると興味を失ったのだろうか。ならばありがたい。おれはもともとあいつから離れる方法を探っていたのだから。


 だけど、この胸のもやもやはなんだろう。

 おれは彼女が望んで死神になった訳じゃないことを知っている。その身に呪いを受けて、苦しんでいることを知っている。それを知りながら、なぜおれはこっち側にいるのだろう。彼女の苦しみを知ろうともせず、異常な強さだけを目にして遠ざけようとするゴートンたちと同じ場所に。

 そうだ、できるならおれは——


「ラッド」


 突然、名前を呼ばれて背中を軽く叩かれた。振り返れば、微笑んでいるレンがいた。


「さっきはありがとう。君が助けてくれなかったら、あたしは怪物に殺されていた」


 おれが剣を投げて巨神狼フェンリルに一矢報いたことを話しているのだろう。なんとか彼女を救いたくて取った行動がうまくいって本当に良かったと思う。


「やっぱり君は変わったんだね。ウチの一行パーティにいて、縮こまっていた頃とは大違いだ。あの子との出会いがきっかけだったのかな?」


 そう言うと、レンは遠ざかるイリスの背中を見た。

 イリスとの出会いは、空腹で倒れていた彼女の手柄を横取りしようとして鎌の刃を突きつけられるという考えうる限りで最悪なものだった。

 その後も口を開けばお腹がすいた、お腹がすいたと連呼してばかり。ずっと無表情で何を考えているのかわからないくせに、いい顔で「ごちそうさま」と言ってくるのだ。

 本当に——迷惑な死神だ。


「はぁ、まったく」


 おれはため息をついて、草地を歩き出す。イリスの背中を追って。

 情が湧いた訳ではない。義侠心に駆られた訳でもない。ただ、もうちょっとだけ彼女が美味しそうにご飯を頬張る姿を見たくなっただけだ。


「ラッド、イリスちゃんに伝えておいて。あたしたちを救ってくれてありがとうって。あの子がいなかったらあたしたちはみんな、巨神狼フェンリルに殺されていたんだから。ゴートンたちは恩知らずだよ」


 レンが少し怒ったように眉をしかめて言った。

 おれは振り返って頷く。少し間を置いてから、おれはレンに尋ねた。


「なぁ、レン。おれたちはまた会えるかな」


 おれもレンも、どこか一箇所に滞在しているのではない。一旦離れ離れになったら、よほどの偶然がない限り再会することはないだろう。

 冒険者の別れとは、そう言うものだ。

 レンは少しだけ寂しげな微笑を浮かべて答えた。


「また会えるよ。だって空は一つに繋がっていて、あたしたちは大地をどこまでも駆ける冒険者なんだからっ!」


 レンらしい前向きな言葉だ。本当に、彼女の言葉には勇気付けられる。

 おれは走り出すと、レンに向かって手を振った。


「レン、元気で!」


「ラッドもね! 君たちの旅路に神様の祝福があらんことを!」


 おれは褐色肌の槍使いの少女に別れを告げ、今度こそイリスの背中を追った。

 すぐに追いつくと、隣に並んで一緒に歩く。


「ごめん、イリス。待たせた」


 イリスはフードの下からこっちを見ると、何も言わず頭をぶつけてきた。


「……少しだけ不安になりました。ほんの少しですが」


 どうやらイリスはおれがすぐ追いかけてこなかったことで、不機嫌になったらしい。裏を返せば、それだけ信頼されていたと言うことだが。


「悪かったよ。知り合いに挨拶してたんだ」


 その知り合いに背中を叩かれ、追いかける決心がついたことは黙っておく。


「……それに、約束もしてるしな」


「約束?」


 イリスが首を傾げる。


「そう。お前が満足するまで料理を作るってさ」


 首に鎌を突きつけられた時はとっさに言ってしまったことだが、今ではそれも悪くはないなと思っている。おれの料理の腕なんてたかが知れているが、イリスが呪いを解くまでの旅の間に空腹感を和らげる手伝いになれば、少しは意味があるのかもしれない。

 そしてその旅が終わった時、おれは変わっている気がするんだ。

 臆病で何もできない自分から、一人で立って歩いていける自分に。それがおれにとっての一番の目的だ。


「この世にはおれたちが想像もしなかったような食べ物がたくさんあるらしいな。虫の湧いたチーズとか、腐ってネバネバしてる豆とか」


「うーん……それはおいしいのかな?」


 イリスが珍しく引き気味に言った。


「案外いけるかもしれないぞ。何事も食べてみないとわからないってな」


 食べるとは、人が生きていく上で最も重要な行為の一つである。土地によって、気候によって、習慣によって、文化によって、あらゆる面で創意工夫が詰まっている。ゆえに全ての料理には生まれた理由があり意味がある。自分の常識に合わない料理だからと遠ざけているだけでは、いつまでも味覚の地平は広がらないままだ。


「では、ラッドくん。改めてよろしくお願いします」


 おれの正面に回ったイリスが、かすかに微笑み手を差し出してきた。

 大地の向こうでは太陽が登ろうとしている。朝の光を受けて、草地や森の木々が一斉に輝き出していた。薄暗かった空は、水面に落ちた絵の具が広がるように青みを帯びていく。


 食べてみないとわからない。それはきっと、人と人との関係も同じだ。

 彼女イリスとの出会いがおれにとっての血肉となるのか、はたまた毒になるのか。それは旅の中でわかることだろう。

 だから今は——


「よろしく、イリス。この旅路に導きの星の加護があらんことを」


 おれはイリスの小さな手を握り返す。


 聖櫃歴一〇九七年。破滅の足音が聞こえてくる落日の世界で、おれとイリスの「世界一おいしい食べ物」を探す旅は始まった。





 ……などと考えながら握手を交わしていると、突然イリスが背負う大鎌がぐるんと回った。

 湾曲している刃がまるで生き物が口を開けるかのごとく上下に分かれる。刃の間には尖った牙が生えていた。


『ガウガウ』


 上下に分かれた刃が動き、獣のような鳴き声を上げた。何が起きたかわからず硬直していると、イリスが背中の大鎌に目を移して言う。


「ファンタズマもよろしくと言っています。この子は人見知りなので、挨拶をするのはとても珍しいです」


「やっぱり生きてるんかい!」


 つい叫んでしまったおれの声が、朝の草原に響いた。

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