2001年3月3日

 部屋の中はすでに青白く霞んでいた。

 体を起こしてテーブルの上のミネラルウォーターに手を伸ばそうとした瞬間、驚いて息をのんだ。姉さんは明けきらぬ夜の青さを背負ったまま、テーブルの上にダラリと腕を伸ばして突っ伏していた。テーブルには”抗抑郁薬”と印刷された錠剤シートが投げ出してあり、抗うつ剤を意味するそれはすでに2錠に減っていた。他にも睡眠導入剤や心療内科の診察券が散らばっており、ソファで眠っていた俺を見ながら姉さんが何をしていたか明白だった。


――なぜなの、姉さん。


 兄弟のいない于春麗ユー・チュンリーにとって、実の家族以上の存在になりたかった。それは愛や恋などという言葉では届かない宗教性を帯びており、そこに男女の営みや未来がないだけで、あるいはそうした関係にあるふたり以上に強く結びついたものでなければならない。

 だからこそ何でも知っていたかった。それがいつの間にか薬に頼らなければならない闇を抱えていた。どうして気付けなかったのかと自分を鞭打ちにしたい。

 いつの間にか姉さんは薄目を開けてこちらを見ていた。俺は慌てて後ろを向くと目の周りをぬぐった。


「(…眠いわ)」


 姉さんは生ぬるい体を預けてきた。白いシルクのガウン一枚を挟んで伝わる体温を抱きしめると、「大丈夫。僕につかまって」と告げた。

 その後姉さんが寝室から出てきたのは昼近くになってからだった。あなたには知られたくなかった、と湿った声がいった。


「僕はあなたの弟だ!弱っている姉さんを見て失望するとでも思いましたか?どうして――」


 そこまで捲し立てて、俺が泣いてちゃしょうがねぇや――。

 おかしいとは思っていた。仕事はどうしたのかと聞いても「弟が訪ねてきたんだから」とあいまいに笑っていつまでもグラスを傾けていた。

 何が于春麗ユー・チュンリーをそこまで追い込んだのかは想像するしかない。外務省高官だった父の後ろ盾で異例の出世をしたことへの重力もあっただろう。女であり、美人かつ聡明であったこともあっただろう。そして”姉”と呼ばれるプレッシャーから打ち明けられなかったと思うとまた涙が溢れそうになった。


「(…わたしには、あなたに姉さんと呼ばれる資格なんてない)」


 その言葉を無視した。今さらそれは許さない。鼻をすすると顔を覆ったまま動かない姉さんの横に座り、わざと明るい声を出した。


「今日は姉さんの誕生日ですよ!物足りないかもしれないけど、僕が精いっぱいお祝いします」


 強がらなくてもいいこと分かってもらいたい。そうです、冷やしたシャンパンもパエリア用に探してきたサフランも無駄にはさせません――。

 姉さんはしばらく動かなかったが、やがてスッと立ち上がると部屋の奥に消えていった。しばらく水が流れる音がしていたが、やがて戻ってくると再びストンとソファに座った。泣きはらした目はまだ赤かった。厚ぼったい唇をキュッと結び、冷めた目を向けてきた。化粧をしていない分、疲れが肌から透けて見えたが、隣から歯磨き粉のミントが香った。


「イーっ」


 俺は口を横一杯に広げて歯を見せた。付き合ってられないという表情が返ってきたが、やがて諦めた姉さんは同じように歯をむき出した。

 軽くその唇に触れた。少しひび割れていたけど構わない。静かに頷くと、こめかみに残っていた泡を親指でふき取った。


「姉さんは化粧をしていなくても美人です」


 こんなわざと臭い言葉しか出てこない自分が情けなかった。姉さんは「(…バカみたい)」と一言だけいうと、横を向いてフフッと吹き出した。

 その後も飽きずに「シャンプーのいい香りがしますね」、「服の合わせ方は昔から素敵だと思ってました」、「お箸の使い方に気品がありますよね」と歯の浮くようなことを言っては姉さんを苦笑させた。やがて茜差す頃には「(そうよ、知ってるわ)」と冗談が返ってくるようになった。人を褒めることの難しさを学んだ一日となった。


 2時間以上かけて作ったお誕生日ディナーは、二人分の胃袋の量を考えると自己顕示欲が出過ぎていた。姉さんはそれぞれちょっとずつしか食べなかったが、「(あなたのお嫁さんになる人がうらやましいわ)」と頬杖をしながら微笑んでくれた。

 一度テーブルを片付けて、ふたたび冷蔵庫に向かった俺に「(もう何も食べられないわ)」とうんざりした声がかけられた。しかし俺が紙皿に乗せて持ってきたものを見た姉さんはすぐに顔をこわばらせた。


「それをどうする気?」

「これは姉さんのケーキです。お好きにどうぞ…」


 夕方の混雑を走って買ってきたのは俺の誕生日の仕返しのためではなく、またあの時みたいに涙を流すほど笑い転げてほしいからだ。大粒のイチゴを乗せたショートケーキを紙皿ごと姉さんの手の上に乗せた。そして俺は彼女の前にひざまずくと、顎を持ち上げて軽く目を閉じた。

 閉じた目の向こうで笑い声に交じって鼻声がいった。


「…イチゴだけいただくわ」


 しばらくすると、衝撃と共に汚い音が顔面を覆った。

 姉さんは窒息するほど紙皿を俺の顔に押しつけた。手の力が緩まると、鼻の中にまで入ったスポンジケーキとホイップクリームが紙皿と共に剥がれ落ちた。

 姉さんは無理やり笑顔を作っていたが、顎の先からポタポタとしずくが落ちているのが見えた。これでいい。この人を笑顔にできるのは俺だけだ――。

 姉さんは指先で持っていたイチゴを一口かじると、歯形の付いたそれを俺の口の中に押し込んだ。


「…ご褒美よ」


 世界で最も甘酸っぱい味だった。

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