ノンストップ・アクション4〜バックパッカー青春放浪記〜

マジシャン・アスカジョー

Last letter ~fig1~

 やっぱり彼女は哀れだと思った。薄い4枚のレターペーパーを折りたたむと封筒の中へ戻した。

 首に巻いたマフラーの中でうずくまり深いため息をつく。驚きであり、悲しみでもあり、怒りの味もした。目を閉じると、グルグルと回転する闇が大きな口を広げていた。


 ポストの中にエマからのエアメールを発見した時、なぜだか分からないがこれは悪い知らせだと直感した。とりあえずそれをカバンにしまうと大学へと向かった。途中新宿の紀伊國屋書店で新しい英和辞書を手に入れた。どうにもそのまま大学に向かう気になれず、どこか静かな場所で手紙を読みたいと思い、そのまま当てもなく歩きはじめた。

 ふと顔を上げると「新宿御苑 大木戸門」という標識が目に入った。11月も最終週のそこは、紅葉の赤やイチョウのまぶしい黄色が折り重なり、都心の中にそうした色を探しに来た人々でにぎわっていた。木漏れ日が差し込むベンチを見つけると、そこに腰を下ろした。


 端をちぎると、薄手のレター用紙にエマの几帳面な文字が並んでいるのが見えた。ほかにホッチキス留めされたものが同封されており、<Aortic valve stenosis>という見慣れないタイトルの下にうんざりするほど長い英文が続いていた。


「…大動脈弁狭窄症?」


 買ったばかりの辞書にはそう書かれていた。



<――まずはじめに色々含めて1回だけ謝っておきます>


 いかにもエマらしい癖の強い言い回しで手紙は始まっていた。



「…We are over(別れましょう)」


 その時エマはしばらく天井を見つめていたが、こちらに寝返りを打つと突然真顔でそう切り出してきた。


「結婚も子供も興味がないわ。だからアタシたちのイベントはこれで終わり」


 「痛かった」とか「気持ちよかった」もなく、突然の<さようなら>に理解が追い付かなかった。その後懇願から恫喝まであらゆる手段で彼女を揺さぶったが、結局このふざけた理由に押し切られてしまった。その後一切メールもなかったが、それを1年近く過ぎた今頃になって詫びてきたのである。


<あなたの迷惑を顧みず送ってしまったけど、これはアタシが幸せになるための手紙です>


 2ページ目の書き出しはそんな言葉から始まっていた。


<――実はアタシの心臓には「大動脈弁狭窄症」という爆弾が仕掛けられています>


 やはり添付されていたのはエマ自身に関するものだった。

 上行大静脈から送られてきた血液を肺動脈へ送り出すのが右心室であるのに対し、肺静脈からの血液を大動脈に循環させるのが左心室だ。その左心室と大動脈の間にある大動脈弁が狭く、スムーズな血液循環に支障をきたすのが大動脈弁狭窄症である。

 大動脈弁狭窄症には3種類あり、エマの場合通常3つあるはずの大動脈弁が2つしかないという先天的なものだった。狭くなった動脈弁に無理やり血液を通してきた結果、左心室の心筋が肥大してしまった。やがては血液循環不良による失神や胸痛を引き起こし、最悪の場合突然死もあり得る。


<興奮したり心臓に負担をかけるようなことはしてはいけないと子供の頃から言われてきた。あなたは誤解していたけど、つまりあなたがだった>


 この時俺の中を駆け巡った気持ちを一つ選ぶとしたら、それはやはり「怒り」だった。いつだって彼女が内包する問題を一つずつ解きほぐそうと努力をしてきた。にもかかわらず彼女は謎めいた否定を繰り返すばかりで、俺の言葉などくだらないおとぎ話のように聞き流した。その挙句「ふたりで語るべきことはもうない」と一方的に捨てられたのである。


 木枯らしがくすんだ色の落ち葉を巻き上げた。奥歯をかみしめる。だが寒さなど感じない。


<なぜ伝えてくれなかったのかと怒るでしょう。でもそれは簡単じゃなかった。こんないつ消えるか分からない命をあなたに背負わせるわけにはいかなかった>


 手紙には<それでも明るい未来を共有させようとするあなたの一途さが鬱陶しかった>とエマらしいも書いてあったが、「初めての夜」について彼女なりに悩んだ形跡が滲んでいた。


<…あなたの体が入ってきた時とうとう死んでしまうと覚悟した。でも世界で一番愛するあなたに、朝になって冷たくなった死体を抱かせるわけにいかないでしょ?だから終わったらできる限り早くあなたを逃がさなければならないと思ったの――>


 あの時枕元で聞いた「We are over」は、つまり彼女なりの愛だったというのか。しかし言葉は矛盾する気持ちに紡がれていた。


<でももしアタシが冷たくなっていたら、その時は一番初めにあなたに発見してほしかった>と。


 ベンチで身じろぎもせず、ただ冷たい風に頬を打たれ続けた。涙は出なかった。複雑怪奇に見えたこの恋は、実はあまりにもシンプルで破綻のない一本の線だったことに気付かされた。


<――アタシの告白は以上です。賢いあなたならきっと上手に理解してくれるでしょう。アタシはまだ生きている。だけどもうあなたには会えない。ひとつだけ残念だったのは雪を見られなかったこと。あなたの住む街にも雪は降るのかしら?それを触ってみたかった。でもこれでいいの。アリガトウ、サヨウナラ。ワタシ、エイエン、シアワセ…>



 空が鳴っていた。

 ふと見上げると、厚い雲に覆われた空から冷たい天使が舞い降りてきた。頬に舞い落ちたいくつものエマは、キスをしてはスッと消えていった。やがてそれは新宿御苑の森全体を白く霞ませていった…。

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