Last letter ~fig2~

 やっぱり彼はバカだと思った。

 アタシが日本語を読めないことなど分かりきっているはずだ。にもかかわらず漢方薬らしきリストを送りつけ、<興味があれば送る>とわざわざ付箋までしてきた。


「まったくおバカな人…」


 つぶやくと封筒の中に折りたたまれていたそれにキスをしてゴミ箱に捨てた。


 今日は調子がいい。ベッドの横に置いたハスの実のお茶に手を伸ばす。軽い。動悸が激しい日は、このグラスすら落としそうになる。氷を浮かべたお茶が体の中に落ちていく。ひんやりとした安心が胸の中に広がった。

 バンコクに来るなら乾季の今だ。気温も20度前後で雨もほとんど降らない。この短く過ごしやすい2週間を外国人たちは「タイの冬」と呼ぶ。冬を祝いたい。白く柔らかな雪の上に寝ころべば、きっとアタシの心臓も喜んでくれるだろう。


 アタシの心臓が自我に目覚めたのは数年前のことだった。妹とサイアムスクエアに買い物に行き、歩道橋を登っている時だった。息苦しいとは感じていたが、急に目の前が暗くなり天地がひっくり返った。

 「走るな」、「重いものを持つな」と父は口やかましかった。しかし「セックスをするな」には気遣い以外の何か呪いめいたものが含まれていた。

 おまえは子供を産める体ではないから――。父はアタシにセックスを禁じて、何を守ろうとしたのか。その父が死ぬとき眺めていた天井のヒビを、今はアタシが眺めている。そういえば、あの時彼もアタシの横で同じヒビを見つめていた。


 …真っ暗なベッドで彼の吐息と体温を受け入れたとき、痙攣を起こした左心室がトマトのように飛び散る様子を思った。達したとき、アタシは血反吐を吐いて彼を汚すのだろうか。

 思い切り抗いたくなった。彼の背中を叩き、頬をはたいてでもやめさせなければ!。しかし彼はアタシをがっちり抑え込むとオスになった。


「(死ぬ、死ぬ!やめて!)」


 タイ語のうわごとは彼には届かなかった。そして彼はアタシを射殺した…。


 終わった後に噛みしめたのは、恥じらいやくすぐったさではなく、まだ生きているという実感だった。心臓はうるさく鳴り続けた。この後忌まわしい暗闇がやってくるのだろうかとうかがっていたが、ふんわりとした鳥の羽のような感覚以外やってこなかった。少しだけズキズキとした嫌な感覚が下腹部に居座ったが、それでもこのまま眠りにつきたいほどだった。

 額の汗をぬぐうと、彼はやさしくアタシの頬に手のひらを添えた。本当はそんな柔らかさではなく、逃げだせないほどギュッとしてほしかった。たった今、アタシは命のやり取りをしたのだ。「セックス」などという不潔な言葉に包装させてたまるか。

 しかしもう一度その快楽に溺れようとした時、間違いなくアタシは砕け散り、血の海の中で沈没するだろう。そして意図せず彼にとんでもない罪を背負わせてしまう。下唇を噛んで悩んだ。そして振り向いた時、自分でも信じられない言葉を選んでしまった。

 「We are over(もう別れましょう)」と――。



<――心臓の病気のことは本当に驚きましたが、あなたを必要以上に難しくしているのはあなた自身です>


 手紙には”exist(存在する)”という言葉がくどいほど使われていたが、お説教なら十分だ。

 誰もが愛も平和もずっと続くものだと気軽に信じている。だが、それらはほんの一瞬なのだ。父も兄もそれを証明するために生まれ、死んでいった。そして遠からずアタシもその殉教者に加わるだろう。


 セックスを拒んできた理由のひとつは、太ももの付け根にある醜い傷跡だ。通称TAVIと呼ばれる人工弁取付けのカテーテル手術の跡である。胸に大きな手術痕を残さないための選択だったが、TAVIは開胸手術に比べて人工弁が長持ちしない。あの時部屋の灯りを消したのは、恥ずかしい表情を見られたくなかったからではなく、「その傷はどうした?」と聞かれないためだった。

 ところが先月の検査で人工弁に血栓が付着しており、心臓が破裂寸前に膨らんでいることがわかった。医者は早急な開胸手術を提案したが、アタシは「あらまぁ」と他人事のような感想を述べると、表情一つ変えずに家に帰ってきた。

 けれども部屋に戻って鍵をかけると、初めて声をあげて泣いた。たぶん一生分泣いた。さんざん泣いてスッキリした後、アタシは彼に手紙を書き始めた。



<――あなたの手紙を読んでいる時ちょうど雪が降り始めました。あなたに届けられればいいのですが、代わり別のプレゼントを贈ります>


 封筒の中には、細い草を編んだコースターが入っていた。


<これは畳という日本の伝統的なフローリングに使われるものです。私たち日本人はこの香りが大好きです>


 ビニールを開けると、中から深い緑の香りがした。こんないい香りがする床に寝ころんでみたい。美しい網模様も素敵だし、なにより草の上ならやわらかそうだ。

 ハスの実のお茶の下に、畳のコースターを敷いた。ベッドに倒れると安いスプリングが軋んだ。


 目を閉じる…。

 アタシは飛行機に乗って東京に行く。ここよりもずっと涼しい街。淡い緑色の畳に寝そべると、空から冷たい天使が舞い降りてくるのが見える。


 このままアタシも白の中に消えていくのだろうか――。

 目を閉じたまま微笑むと手をそっと持ち上げた。涙が伝った。

 アタシは100%ジュースじゃないの。着色料や添加物を色々含んでいるの。でも美味しかったでしょ?。


 呼吸が落ち着き、着陸態勢に入る。

 白く霞む先に誰かが見えた。彼は…。

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