~Prologue~2020年5月10日
約束の30分も前だというのに坂元氏はすでに待ち合わせ場所に立っていた。坂元氏はリュックサックを担いだ俺を見つけると軽く手を挙げた。
東京駅日本橋口を流れる風は、そのまま立ち尽くしたくなるほどさわやかだった。コロナ禍で朝の永代通りは掃き清められたような静けさだった。
「あ、おにぎりは凍ったら食べられないですよ」
途中立ち寄ったコンビニで坂元氏は渋い顔をされた。目指すは山梨・長野・埼玉をまたぐ
坂元氏がエベレストに挑まれたのは18年前。54になった今でも名峰への挑戦をライフワークとされている。そんな坂元氏からすれば今日の
「とんでもない。相手が自然である以上経験なんてたいして役に立たないですよ」
この謙虚な先輩とは、人事評価に関する社外研修会で知り合った。
「――よかったらお一つ」
向かいに座っていた坂元氏は、休憩時間に見たことのない包み菓子を配り始めた。<ラムネのようなチョコのような>という説明どおり放り込むと口の中で粉々になった。
「ロシア土産ですか?」
包み紙に<雪の花>とロシア語で書かれていた。聞けば、先月少し遅めの夏季休暇でウラジオストクに行っていたという。大学卒業してモスクワで働いてましたと告げると、坂元氏は身を乗り出して興味を示された。研修会のあと場所を居酒屋に移し、旅の話で大いに盛り上がった。
「今じゃアフガンといえばタリバンで有名になってしまいましたが、我々の時代は平和そのものでした」
1973年クーデター以前のアフガニスタンは牧歌的だった。首都カブールでも1ドルあれば、その日の宿代から怪しい葉っぱまで手に入れてお釣りが来たという。
「当時はベトナム戦争末期でアフガンにくる旅人やヒッピーがたくさんいました。恥ずかしながら自分もそんな一人でした」
坂元氏は照れ臭そうに頭を掻いた。焼酎から日本酒に変えると、坂元氏は核心的な話をし始めた。
「ある時同じ宿にいたアメリカ人のヒッピーが死にましてね。ドラッグ中毒でした。そこで旅の恐ろしさを見てしまいました」
酒と紫煙があってもどうにもぬぐえぬ寂しい夜がある。その焦りをかき消そうと流されていくうちに、とんでもない遠くまで来てしまう。ベッドで鼻血を垂らしたまま冷たくなっていたヒッピーを見たとき、坂元氏は旅路の果ての闇に気付いたという。
「山を勧められたのはちょうどその頃です。ネパール西部の2000メートル級の山でしたが、ちょっとした遠足気分で出かけて行ったんです」
しかしそこで切り立った岩山や急変する天候に無残にも追い返されたという。
「山は頂上を目指すというハッキリとした目的がなければ登りきることはできません。放浪の旅みたいなあいまいさでは無理なんです」
ハッキリとした目的がなければ登りきることはできない――。
超自然を相手にしてきた坂元氏の言葉に根底から揺さぶられた。
「そうだ。今度一緒に山に行ってみませんか?」
暖簾を出たところで坂元氏は伸びやかにいった。
「せっかくだから沢登りにしましょう。山登りもいいけど、道なき道を行く沢登りのほうがバックパッカーっぽい」
旅など卒業して20年も経つ。俺の中に微かにくすぶる旅人としての何かを感じてか、坂元氏はあえて「バックパッカー」という言葉を選ばれた。こうして20年ぶりの再起動に火が灯った――。
東京駅から新幹線で長野県佐久平へ。そこからローカル線に乗り換えて、信濃川上駅まで1時間と少々。
2時間も進むと、大小の砂利に足を取られて膝が重くなってきた。坂元氏は肩の上下もほとんどなく一定のスピードで進んでいく。時折こちらを振り返るが、そこに笑顔も疲れもなく、ただ空虚と描写するしかない表情を写していた。
そういえば、スナフキン先輩はどうしているだろうか――。
放浪の旅を教えてくれたのは、アルバイト先で「スナフキン」と呼ばれていた安井さんだった。
<――世の中案外美しいもので溢れてる。幸せなんてそれに気付けるかだけさ>
ところがある日、スナフキン先輩は忽然と映画館から姿を消した。一番弟子を自称していた俺にも何も告げられなかった事情については汲むしかない。
いよいよ私物品を処分する日、俺はその中から彼の愛用のZippoライターを拾った。
<ロシアで手に入れたんだぜ>とよく自慢していた。以来このZippoライターをお守りとして旅にも同行させてきた。もちろん
藪をかき分け、枝につかまり、道なき道を進んだ。もがくようにして進むが、岩肌や木の根は容赦なく立ちふさがる。荒い息を整えながらまだ続く沢の先を睨む。
ふと手が伸びてきた。坂元氏の顔は逆光で消えており、まるで首なし人間が手を差しのべているかのようだった。
「もう少しです。今日は霞んでないから富士山や八ヶ岳も見えるかもしれません」
その手をつかもうと手を伸ばす。
逆光の中に消された表情が、俺を一歩上の世界へと引き上げてくれた。
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