2001年1月25日

「…えっと、その席は緊急避難口の隣なのでもし英語が得意でなければ座席を変わっていただけますか、と言ってます」


 放っておけばよかったのだが、つい口をはさんでしまった。隣席の彼女は、声をかけてきた青い目のスチュワーデスと俺の顔を交互に見ると予想外の言葉を発した。


「――ノープロブレム」


 それを聞いた美人スチュワーデスは、俺と彼女を見比べると深くうなづいて機内の奥へと戻っていった。待てコラ。我々はそういう関係ではない。勝手に一括りにされては困る。

 それにしてもふたたび読みかけの文庫本を開いたこのはどうだ。黒のタートルネックに黒縁メガネ。艶やかなストレートに隠れて表情はうかがえない。やがてこちらの視線に気づいた彼女はゆっくり顔を上げた。


「ありがとうございました。わたし、英語が得意じゃないので」


 こうしてスカンジナビア航空984便の命運は、この「ノープロブレム」しか知らない彼女に託された。



 機体は轟音をあげて滑走路を駆け出すとフワリと宙に浮いた。傾くたびに見えていた地上は、あっという間に薄めたミルク色の中に消えた。

 今から約40日かけてヨーロッパからアジアまで横断する。

 デンマーク、スウェーデンと北欧に立ち寄り、その後ロンドンへと飛ぶ。そこからパリ・ベルリン・ワルシャワと寄り、バルト三国を北上。その後ヘルシンキからいよいよロシアへ。モスクワ発のシベリア鉄道は6日間かけてシベリア雪原を超え、3月初旬にモンゴルに入る。ゴビ砂漠を超え、姉と慕う于春麗ユー・チュンリーが待つ北京がゴールだ。帰国する頃には東京の冬も終わっているだろう。


「――荷物、少なくていいですね」


 文庫本に飽きたのか、隣の黒縁メガネが話しかけてきた。


「魚住サユリといいます。よろしく」


 まとまった休みを取り、今まさに初めての一人旅に出ようとしているという。その足元にあるトランプ柄のリュックは破裂寸前に膨らんでいる。これだから素人は困る。いざというときに頼りになるのは逃げ足の速さだけだ。にもかかわらず彼女はリュックの中に分厚い英和辞典を詰め込み、その上『ポケット六法』まで出てきたことには言葉を失った。


「わたし、裁判所で働いてまして」


 だから何だというのだ。海外で日本の民法を武器に争うつもりか。


「裁判官の手前で法廷調書を作成しているのが裁判所書記官。わたしはそれを補佐する裁判所事務官です。当事者対応をしたり、証人尋問の準備をしたりします」


 サユリさんは群馬の大学で法律を学び、今は神奈川の家庭裁判所に勤めているという。

 シベリアの雪原に陽が落ち、眼下には漆黒が広がっていった。話していく内に、ふたりとも同じスカンジナビア航空の周遊チケットを持っていることが分かった。

 サユリさんはコペンハーゲンには滞在せず、そのままストックホルム行きに乗り換えるが、ストックホルムから同じフライトでロンドンに渡り、その後偶然にもパリ・ベルリンまで旅程が重なっていることが判明した。


「すごい偶然ですね!よかったら一緒に旅行しませんか?」


 こういうところが初心者なのだ。知り合って間もない男の何を信用するというのか。

 独りにこだわるつもりはないが、他人が理解しやすい自分であることはやめた。もう友達も恋人もいらない。自分だけの景色の為に旅に出ているわけで、誰かと手をつないでそれを見たいなどと少しも願っていないのだ。


「ストックホルムで見かけたら声をかけます。ところでなんで一人旅だったんですか?」

「実は今の仕事を辞めようか迷っていて、色々考える時間が欲しかったんです。この2週間で答えが見つかったらいいなって」


 サユリさんは前を向いていたまま答えた。


「…たぶん旅では何も見つからないと思います」


 つい本音が出てしまった。旅など突き詰めたところでただ広漠な孤独が待っているだ。変化が欲しいなら人の中であがいていたほうがいい。しかしサユリさんはそれきり黙ってしまった。そのうち「ちょっと疲れたので」と彼女はリクライニングを緩め、反対側を向いてしまった。

 だいぶ無神経なことを言ってしまった。窓に写った自分の顔に”おまえは他人の一人旅にケチを付けられるほどエライのか」と問う。一緒に未来を見ようとしてくれた恋人を捨て、家族や友人を振り切り、意固地になって旅の中に居場所を探そうと出国してきたではないか――。



 軽く目を閉じている間に、機体は北欧の小さな王国に向けて高度を下げ始めていた。ふと横を見ると、サユリさんは長い黒髪をたらしたままうつむいていた。


「――さっきは分かったようなことを言ってすみませんでした」


 こちらの声にサユリさんはサッと顔を上げてこちらに向き直った。


「わたし絶対変わりますから。この2週間で自分が何をしたいのか見つけますので!」


 キッパリそう言い切ると、彼女は黒縁メガネを指でスッと持ち上げた。思わず息を呑んでしまったが、その後サユリさんは小さな声で付け足した。


「have a nice trip…」


 ノープロブレム以外に旅人にとって必要不可欠な言葉も知っているようだ。軽く会釈をして受け取ると「you too」と返した。彼女の旅が自分を見つめ直すきっかけになってほしい。そして俺もこの旅を最後に放浪の旅を卒業できるのか――。それぞれの想いを乗せたボーイングは、まもなくコペンハーゲンに着陸しようとしている。

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