2001年3月5日
生ぬるい風を含んだ空に、少し孕んだ上弦の月が浮いていた。深いスリットの入った紺色の裾を直すと、姉さんは椅子の上で足を組みなおした。
「(…あなたが春を連れてきたのね)」
「いいえ。春はまだ先です」
建国門を天安門広場へと流れる赤いドットを見つめていた。ここに来た日、高架下を流れる車の列を眺めていた姉さんは「彼らはどこに向かうのかしら?」と呟いた。そして「きっとわたしたちと同じ地獄だわ」とその窓に背を向けた。
寂しげな横顔をチラリとかすめる。ふと、東京・霞が関から赤坂方面に右折した時に見たテールライトが重なった――。
思うところあってか、姉さんはいつも後部座席に乗った。北京国際友好協会の日本担当として来日しているので、その責任においても、夜の東京を流れるふたりの間にほとんど会話はない。それでも俺にとっては幸せな時間だった。
そもそも北京国際友好協会は文化交流事業の窓口機関ではあるが、中国外務省および人民解放軍の直轄組織であることを忘れてはならない。かつては「対外工作室」と呼ばれ、改革開放が進んだ90年代にイメージを考慮して今の団体名に変更された。
その任務は、他国の政治経済の中心に中国寄りの発言をする人材の確保と育成である。対象は政治家や経済人に限らず、発言力のあるアーティストもリストに挙げている。その手法は文化交流事業を謳った接待から資金提供、あるいはハニートラップも常套としている。北京だけでもこうした団体は200以上あり、その予算は外務省ではなく人民解放軍からも出ていると言われている。
中国外務省高官の父を持つ
「(…いいわ。車を出して)」
その日、
「何時ぐらいに迎えにいったらいいですか?」
彼女は窓の外を眺めたまま答えなかった。
「…終わったら電話するわ」
車を降りる前、彼女はバッグの中から香水を取り出し、うなじひと振りしてから出ていった。その背中を見送ると窓を全開にし、ダッシュボードのタバコに手を伸ばした。
その後着信があったのは夜中の2時近くだった。
「(…出して)」
車に乗り込むんだ彼女は短くそう俺に命じた。明らかに彼女のものではない銘柄のタバコが香った。四谷の交差点でバックミラー越しに後部座席を見た。彼女は窓に写った自分の顔を眺めていたが、窓を鏡にして唇にルージュを上塗りしていた。
「…着きました」
飯田橋のホテルの前でサイドブレーキを引くと、俺は前を向いたまま呟いた。
彼女は窓の外を冷めた目で見ていたが、やがてハンドバックから財布を取り出すと、俺の肩越しに一万円札を差し出した。
「お小遣い」
指先からヒラヒラとお札が落ちた。
「いりません!そんなもの!」
俺は落ちた一万円を投げ返した。その時初めて彼女の目が赤く腫れていることに気がついた。
俺はただの運転手に過ぎない。目的地を聞く以外質問すら許されない。議員か財界人か、あるいは大使館筋の中国人か――。濃いタールのタバコの持ち主について詮索したところで得られるものはない。ただ、口惜しかった。屈辱や絶望を共有できないのであれば、せめて俺に当たり散らしてほしい。助手席のヘッドレストを殴りつけると、歯ぎしりをして涙をぬぐった。
<…あなたが好きだったわたしは死んでしまった>
それは薬に頼らなければならないメンタル状態のことだけではなく、屈してしまった自分への嫌悪も含まれているのだろう。だが、死に急ぐというなら俺はあなたが信じるものを全力で否定しなければならない。国も、権力も、あなたが注いだ半分も返してくれない。すり減って、国の砂となったとしても、それこそ1年後にはあなたのことなど誰も覚えていないだろう。
夜が深くなり、中心部に向かう車の数も減ってきた。風はまだぬるい。俺は向き直ると唐突に真剣な声を出した。
「命を削るほどの価値なんてありません」
今日まで黙って仕えてきた。だが今ならはっきりと反抗できる。行先に地獄が待っていると分かっているならハザードをつけて右折すればいい。
「(そんなに簡単なことじゃないわ!)」
毛沢東の肖像を掲げた天安門へと流れていく赤いテールライトの列に背を向けると、彼女は叩きつけるようにいった。
「だから何だというのです!」
もどかしさが喉をついて出た。
「何億人のために働くよりも、ひとりが一人を支えることの方が…」
言葉が途切れた。だが伝えるなら今しかない。
「勇気のいることなんです」
姉さんはふたたび窓の外を見つめ、しばらく動かなかった。
おそらくこの世界を動かしているのは愛ではなく勇気だ。その欠如が悪を増長させ、犠牲を増やし続けている。簡単じゃないと跳ね返されることなど百も承知だ。しかしそれでもその道を行くというなら俺は全力であなたの前に立ちはだかる。
「(勇気をありがとう…)」
姉さんはスッと立ち上がると、今日は早めに寝るわと寝室に消えていった。その背中はひどく寂しげだった…。
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