2001年3月6日

 于春麗ユー・チュンリーの2LDK には、大通りに面してガラスで囲まれた小さなバルコニーがついている。そこからの眺めが好きなのか、彼女はそこにアンティーク風のテーブルと丸椅子を置いている。遠くに霞む天安門広場を眺めていると、彼女はよく冷えたボトルとグラスをふたつ提げて近づいてきた。


「(もうすぐ春ね)」

「はい、寒い季節は終わりです」


 Pri Katzというドイツ・モーゼルワインで、青いボトルにお座りした黒猫が描かれている。今朝の北京は微笑みたくなるほど麗らかで、グラスの中の細かい泡がよく似合う。

 コペンハーゲンから北京へ。今宵その旅が終わる。毎朝酷い顔をしてリビングに現れた姉さんだったが、今朝は襟付きのシャツに艶やかなルージュを引き、ゾクリとする美しさで現れた。


 ふたりの間に咲く花が実を結ぶことはない。

 だとすれば、そんな季節の巡りに何の価値があるのだろうか――。

 

「(――わたしも、)」


 ふいに于春麗ユー・チュンリーが言葉を注いだ。その言葉をなぞろうとした瞬間、突然窓の外から女の甲高い叫び声が聞こえた。


 見ると階下の玄関で、若い男女が言い争っていた。

 金髪に染めた襟足を短く刈り上げたパンクロッカー風の女が、目の前の二匹を圧倒していた。激しく指を突き立てられ、しなびた漬物のように萎んだ青年は柳の樹に寄りかかってうなだれている。漬物野郎には援軍がいた。シャツの襟をジャケットの外に出したチンピラ風味の男で、パンク女と漬物野郎の間に立ち、どちらかというと女の鎮火に忙しい。

 ふと隣を見ると、于春麗ユー・チュンリーは悪い顔をして微笑んでいた。


「(ちょっとタバコ持ってきて)」


 于春麗ユー・チュンリーはバルコニーから身を乗り出し、パンク女の激しい北京訛りが漬物野郎をハチの巣にしていく様子を観戦しはじめた。

 浮気発覚か、あるいはダサすぎる黄色いシャツがお気に召さなかったのか――。

 ただ明らかに勝負はついており、友情を果たさんと駆け付けたチンピラ風味ももはや陥落寸前の友人をただ傍観するしかなかった。

 いったん山場をむかえた本日のメインカードだったが、漬物青年の余計な一言により爆発的な状況へと急変した。パンク女は腕をまくると漬物野郎の喉元を鷲掴みにした。慌てたチンピラ風味が漬物野郎の喉と接続されたパンク女の腕を振りほどこうとしているが、彼女はまるで地から生えたかのようにビクともしない。

 やがてパンク女はパッと手を離すと、彼らに背を向けて立ち去ろうとした。ところが思い出したかのように振り返ると、いきなり黒のレザーから伸びた足の甲で漬物野郎のイチモツを爆破した。そして返す刀でチンピラ風味の股間にも鳴り響く稲妻を打ち付けたのである。

 この歴史的瞬間に俺と于春麗ユー・チュンリーはグラスを鳴らして祝った。悲哀を込めた一瞥を向けると、パンク女は客待ちのタクシーをつかまえて去っていった。表通りには犬のクソのように丸まった二つの影が転がっていた。


「(――わたしたちは、あんなふうに軽やかにはいかないわね)」


 于春麗ユー・チュンリーは笑っていたが、こぼれ落ちたものが頬に筋を作っていた。

 もし俺と于春麗ユー・チュンリーが普通の男女なら、今見たような活劇もあり得るだろう。そういう「ごめんね」と「ありがとう」を重ねることで育つものもあっただろう。しかしふたりの間に咲く花は、どれほど季節が巡ったとしても実を結ぶことはない。はかなく美しいが、やがて老い、いつかは首根からボトリと落ちる運命にあるのだ。そんな日が来るの遠ざけるため、「姉」と「弟」と呼び合ってぼやかしてきた。そうした複雑な操縦からすれば、今表通りで股間をしかと押さえて転がっている彼らはたしかに「軽やか」である。


 そっと手を伸ばした。

 するとゆっくりとやさしさが返ってきた。

 だがそれ以上は1ミリも動かさず、ただ互いの手のひらの温かさを交換し合った。


 たまらず于春麗ユー・チュンリーの方を向くと、何も考えずに言葉を発した。


「姉さんのことが好きです!僕が必ず姉さんを守ります!だから、」


 しかしその瞬間、于春麗ユー・チュンリーはそれを上回る大きさで俺を遮った。


「(その話は終わり!わたしたちはしばらく会うべきではない!)」


 駆け巡ったのは絶望ではなく安堵に近かった。一呼吸分の空白を作ると、于春麗ユー・チュンリーは強い意志を目に表して続けた。


「(あなたに尊敬される姉になる。時間がかかると思うけど、わたしを大事に想ってくれるならしばらく待って)」


 今朝襟付きのシャツに真っ赤なルージュを引いて部屋から出てきたのは、それを伝えるためだったのだ。于春麗ユー・チュンリーは繋いだ手をほどくと頬を伝うものを拭った。


「…わかりました。遠くで待っている僕を心配させないでくださいね」


 こうして姉と弟の恋は、ほんの数分で終わりを告げた。



 北京国際空港の空は、春を待つ艶やかさを含んだ色に霞んでいた。

 

「――あの時”わたしも”って何を言いかけたんですか?」


 空港まで車を出してくれたが、その後ほとんど言葉を交わしていない。于春麗ユー・チュンリーはただ首を振ると、「もう行って」と俺を追い出した。しかし進み始めたその背中に彼女の声が刺さった。


「我愛上你了(ウォアイシャンニーラ)!」


 実を結ばない花が美しくないとは限らない。

 俺は肩に食い込んだ荷物を持ち直すと、腕を伸ばして于春麗ユー・チュンリーの頬のしずくを指先ですくった。


「…さようなら、姉さん」


 ”ありがとう”の代わりになっていない言葉はもう戻らない。

 長い旅も、そして姉さんとの物語も、霞の中に消えようとしていた。

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