2001年3月4日

 ふたりだけのバースデーパーティーは日付が変わった真夜中まで続いた。

 ホイップクリームまみれの顔を洗うと、旅行カバンからリボンに包まれた細長い箱を取り出し、そっと姉さんのフルートグラスの横に添えた。


「モスクワで用意したものですが、これは僕自身へのプレゼントでもあるんです」


 そんなキザな言い方をしなくてもよかったが、半分はその説明で正しい。

 ハートシェイプにカットされたアクアマリンのネックレスは仲村氏が選んでくれた。色々協力させてしまったお礼に今回ウチの利益はなしですと笑うと、秘書のマーシャにリボンを掛けさせた。誰に渡すのか聞いてこなかったが「その方を大事にしてください」と仲村氏はニヤリとした。


 リボンを外した姉さんは、包装紙をきれいに畳むとゆっくりとケースを開けた。


「――僕にとってのプレゼントとは、」


 立ち上がると、姉さんの後ろに回った。

 留め金を外した指先が彼女の首に触れ、艶やかな黒髪が俺の手を包んだ。永遠にそうしていたかった。でも、これで充分――。


「…嬉しい」


 玄関の大きな姿見の前に立った姉さんは、胸元に光る澄んだライトブルーのハートに触れながらつぶやいた。


 …突然唇を重ねられたとき、反射的に彼女を押し返してしまった。

 しかし彼女は俺の手を振りほどくと、再び赤ワインの香りで全てを覆った。厚ぼったい唇が俺の輪郭をなぞる。罪を犯した者のような荒い鼻息が次第に首筋へと伝っていった時、姿見の中の自分自身と目が合った。その瞬間、俺は思いっきり梶を逆に切った。


「…もう大丈夫です、姉さん」


 力づくで引きはがされた于春麗ユー・チュンリーは、肩を激しく上下させながら物凄い形相で俺を睨みつけてきた。口角には裂けたような紅が跳ね、血肉を喰らった猛禽類のようだった。


「為什麼…《どうして》」


 分かりきったことを聞かないでほしかった。このまま愛し合ってしまえば、姉弟と呼び合うことでごまかしてきた現実と戦うことになる。その結果、遠からずふたりは二度と会えなくなるだろう。互いに失う覚悟がなかったからこそ、今まで姉弟ごっこをして境目をぼやかしてきたのだ。

 于春麗ユー・チュンリーは苦しそうな表情で泣いていた。その震える肩を抱いた。拒絶されると思ったが、彼女はされるがまま体を預けてきた。


「(…どうしたらいいか分からない)」


 すすり上げながら彼女はつぶやいた。


「これからもずっと姉さんのことが好きです」

「(責任取れないならそういうことは言わないで!)」


 于春麗ユー・チュンリーは俺を突き飛ばすとバスルームに消えていった。

 あのまま流れを止めず、姿見の前で地獄に落ちるべきだったのかもしれない。その後長いことシャワーの音を聞いていた。俺は灰皿をバルコニーに運ぶと生温い北京の夜風を見上げた。ぼんやりとした月をかき消すように煙をふかす。

 ぜんぶ俺のせいだ。くどいようだが俺と于春麗ユー・チュンリーにはそういう意味での未来はない。だがせめて、というささやかな俺の妄想が彼女にこういう事故を引き起こさせてしまった。


 バスローブに包まれた姉さんは、スッキリした表情で部屋に入ってきた。


「――さっきはごめんなさい。飲み過ぎたわ」


 謝るのはこちらだが、軽く頷くとそれ以上何も言わずに下を向いた。


「少しだけマッサージしてくれる?」


 姉さんは手招きすると自分の部屋のベッドの上にドサリと倒れた。

 この期に及んでまだ妙な展開を警戒したが、姉さんは気だるそうに右腕だけこちらに投げ出して目を閉じた。そのまま眠ってしまっていいようにそっと部屋の明かりを落とした。


「…もし私が死んで、」


 姉さんは闇に向かって語り始めた。


「1年も過ぎれば、誰もわたしのことなんて覚えてないわ」

「まだそんなこと言っているんですか!」


 忘れるわけないだろ――。自分だけに聞こえるよう低くつぶやいた。

 しばらく闇がふたりを隔てていたが、やがて姉さんは温まってきた指先で俺の手を握り返してきた。


「…でもあなたが好きだったわたしは死んでしまった」


 俺は無言で首を振ったが、姉さんは向きなおると目でそれを否定した。


「(どうしたらいいと思う?)」


 …やがて規則正しい呼吸が聞こえてきた。

 茎のように細い手首に腕時計が巻き付いたままだった。彼女の体温を吸った腕時計は朝6時をさしていた。窓から差し込んだ群青色はとても寂し気だった。毛布で姉さんを守ると、ゆっくりとベッドの淵に腰かけた。


<――どうしたらいいと思う?>


 何を聞かれているか、正確に理解しているつもりだ。 

 于春麗ユー・チュンリーは中国外務省の外郭団体とはいえ、その対日戦略を担う外交官である。立場上明かせないことも少なくないだろう。一回りも違う年齢のことより、一介の大学生とという設定に無理がある。もしこのまま彼女と建設的な未来を望むなら、まず彼女は今の立場を放棄しなければならない。

 どうしたらいいと思うという彼女のつぶやきには、すり減らされ精神的に追い詰められている現状に対する諦めも含まれている。このまますべてを捨てて、今まで曖昧なままにしてきた想いに殉じるべきか彼女自身も大きく揺れている。


 美しい黒髪の間から姉さんの白い鼻筋が見えた。その表情は髪に覆われてよく見えない。

 どうにか救いたい。責任が取れないなら惑わせないで、と姉さんは俺を突き飛ばしたが、結ばれることだけが答えではない。

 しかし凛として美しかった姉さんをこういう形で変えてしまっていいものか。ベッドの淵に座ったまま最愛の人を眺め続けた。

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