2001年2月11日

 無数の十字架が折り重なるようにして吊るされていた。昨日から降り積もった雪をかぶり、その静けさがこの丘全体に籠められた膨大な祈りを際立たせていた。

 雪の回廊を進み、奥まったところで立ち止まると、シモナ嬢はこちらを振り返った。


「これをどうぞ」


 手には小さな十字架が握られていた。身長ほどある十字架にはすでにたくさんの祈りがぶら下がっていた。その足元に置くと目を閉じて手を合わせた。シモナ嬢はもっと高いところに置けばよかったのにと隣で呟いたが、これで十分だ。立ち上がって祈りの丘を見渡すと、ふと心が軽くなった。


 巡礼地「十字架の丘」は、シャウレイから北東10キロほどの小さな村はずれにある。いつ、だれが、何の目的で始めたのかはっきりしないが、やがて自生しているかのようにその規模を広げていった。

 大戦後再びリトアニアを併合したモスクワはこれを危険視した。革命と共産党以外への信仰を弾圧対象とするソ連は丘への立入りを禁じ、ブルドーザーですべてをなぎ倒した。ところがその都度何者かが夜陰にまぎれて新たな十字架を担ぎ込んだ。丘ごと焼き払おうと、まるで一個の生き物かのように丘は十字架を生やして蘇った。

 ゆっくりと十字架の丘を歩く。シモナ嬢は白い息を吐きながらこの丘の歴史を語ってくれた。


「でも十字架の丘は決して独立のためのモニュメントではないの」


 ほら、と彼女が指差す先に小さな木の板をぶら下げた十字架があった。<グレタおばあちゃんの病気が早く治りますように>と書いてあるという。


「リトアニア人にとってここは大切な願い事をする場所なの」


 シモナ嬢はその木版の前で小さく十字を切った。

 それなのに、と彼女は続けた。昨年日本からやってきた番組の撮影班は、十字架の丘をどうしても独立や民族主義の象徴として描きたがったという。カウナスの文化交流センター「橋」を通じてシモナ嬢もお手伝いすることになったが、「これは日本の神社にある絵馬みたいなものだ」と説明しても聞き入れられなかったらしい。

 その結果、どうしてもこの丘を独立戦争のモニュメントとして描きたかったディレクターによって犠牲者を慰霊するシーンが捏造された。シモナ嬢はそれに加担してしまったことを今でも後悔しているという。


「撮影のとき、日本では”愛国心”という言葉は放送することはできないと聞いたの。でもPatriotismとNationalismは違う意味だと説明しても理解してもらえなかった」


 どちらも「愛国心」と訳されて雑多に解釈されることが多い。しかしPatriotism(パトリオティズム)とは、生まれ育った国や文化を素直に誇りに思う心のことであり、Nationalism(ナショナリズム)は排他主義を前提としているため、そのふたつは区別して扱うべきだ。

 シモナ嬢は十字架に積もった雪を払うと、どんよりとした曇り空を見上げた。


「91年の血の日曜日のことはよく覚えているわ。あの日パパは私とママを抱きしめ、もしものことがあってもパパのことを誇りに思ってほしいと言っていたわ」


 1991年1月13日、リトアニア最高会議所やテレビ塔を守ろうとしていたリトアニア市民に対し、ソ連兵が無差別に発砲し13人が犠牲になった。「たしかに、」と彼女は言葉を区切った。


「その勇気のおかげで独立できたけど、パパはいまだに独立戦争の中にいる。たぶんあの時のエネルギーをどう終わらせたらいいのか分からないんだと思う」


 資本主義の仲間入りをしてからの10年間を冷静に見てきた分析として、そろそろ民族主義を拠り所にする気分を変えないと、今後この国は間違った方向に進むのではないか。そうした不安を彼女は言っている。


「――ところで、さっき何をお祈りしたの?」


 シモナ嬢は雪の重みで傾いた大きな十字架を真っ直ぐに立て直した。


「旅に出る前に大事な友人とケンカをしてしまった。両親にもひどい言葉を投げつけた。だから”ごめんなさい”って手を合わせた」


 気持ちを入れ替えて学校に来るように説得してくれた藤木や、卒業後の進路について心配してくれた両親。そして触れ合うことで愛を深めようとしてくれたサキ――。

 そのすべてを雑音として退け、ここで諦めるわけにはいかないとアクセルを踏み続けてきた。しかし俺が掲げてきたものは、シモナ嬢がいうナショナリズムそのものだ。極端な自己肯定を杖に、他者をそれで打ち付け、孤高の闇の中で必死に耳をふさいできた。

 十字架の丘に託された願いの多くは、自分自身のためではなく大切な誰かのために掛けられていた。病気と闘う祖母のため、夢を追いかける友人のため、そしてこの国の未来を作る子供たちのため、その小さな祈りは凍てつく寒さの中でただじっと春を待っていた。

 俺はとんでもない思い上がりをしていた。自分が立てた大きな十字架ばかりを見つめ、衝突してまで掛けてくれた人々の小さな十字架を踏みつけてきた。


「そのごめんなさいはきっと届くと思う」


 届くかどうかはわからない。ただ、今まで無理やり抑え込んできた過ちにようやく素直に向き合うことができたかもしれない。

 雪の中で膝を折ると、かけがえのない人たちの顔を思い出しながら祈った。どうか俺の愚かさを許してほしい――。

 降りしきる雪道の上に、新しい靴跡がどこまでも続いている。鼻をひとつすすると伝った涙を拭った。

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