2001年2月15日

 何か面白いことはないかとネフスキー大通りのカフェから表通りを眺める。厚ぼったい雲が低く垂れこみ、時折チラチラと白いものが舞っている。

 地図を広げ、西に行くか、東に行くかと占う。だがやはり圧倒的に西エリアだ。エルミタージュ美術館をはじめ、イサク聖堂やロシア美術館といったサンクトペテルブルグの見どころは車が流れていく方向に集まっている。

 スラリと長い脚の美人が運んできたアールグレイをすすりながら、「だがしかし」と頬杖をかく。どうしてもロシアを描こうとすると話が壮大になってしまう。

 西エリアの豪奢な宮殿や、万華鏡のように広がるフレスコ画の光を表現するだけでも、無駄に言葉の装飾を使ってしまいそうになる。あるいはそれを建造した皇帝に焦点を当てると、これまた極端な歴史を紐解かなければならない。


 そもそもサンクトペテルブルクという街は、1703年にピョートル大帝の思い付きで造作された。しかしその沼地の開拓には幾万の戦争捕虜や農奴がつぎ込まれ、疫病や建設事故で4万人が犠牲になった。

 ネヴァ川沿いにあるペトロハブロフスク要塞を背景に、第二次大戦中のレニングラード(現サンクトペテルブルグ)包囲戦を描くにも、80万人もの市民が飢えと寒さで死亡した重さをどう描いたらいいのやら。ロシアはそういう単位で歴史を刻んできた。ふらりと来た旅人が測ることのできないが、いたるところに転がっている。


 そうした「わぁ」という感想しか出てこない観光地を巡るより、こうしてカフェで数ドル払って隣の男女が長いこと何を話し合っているのか妄想しているほうが楽しい。


<――幸せな家族はどれもみな同じように見えるが、不幸な家族にはそれぞれの不幸の形がある>


 トルストイは『アンナ・カレーニナ』の冒頭にそう書いているが、旅を描くのも、そうした凡庸さがなければならない。やはり宮殿ではダメなのだ。


 ロシアの男は酒も好きだが、タバコも好きだ。カフェでプカリとやっていると、「1本くれるか?」とよく声をかけられる。まるでティッシュをもらっていくような気軽さだ。気前よく分けたいので、道すがらキヨスクで同じものを2箱買った。灰皿を引き寄せてポストカードに向かっていると、案の定背広を着た男が声をかけてきた。


「(すまない。火を貸してもらえるか?)」


 タバコをたからなかっただけ紳士に見えた。すると彼は俺が差し出したZippoライターを不思議そうに眺めていた。そういえばシモナ嬢の父であるシギタス氏もこのライターをしげしげと眺めていた。何が書かれているかと尋ねると、シギタス氏はまず蓋の部分を指さした。


「ヴォルゴグラード。モスクワのはるか南、ボルガ川沿いにある街の名前だね」


 マルクス・レーニン主義の「鎌とハンマー」の上に刻まれた文字をなぞるとシギタス氏は続けた。


「ドルジーニク。民兵とか自警団という意味だよ」


 ”ヴォルゴグラードの自警団”という意味深な言葉にピンとこなかったが、そこはどんな街なのか重ねて聞いてみた。


「大戦中はスターリングラードと呼ばれた街だよ。そこでどれだけたくさんの血が流れたことか!」


 それを聞いてようやく理解が追いついた。スターリングラード攻防戦として語り継がれる1942年から翌年2月までの戦争で200万人が死んだ。そのわずか約7か月の間、毎日1万人近くが飢えやがれきの下敷きとなって死んだ計算になる。

 このZippoの本来の持ち主は、一人旅というものを教えてくれたスナフキン先輩であることはすでに触れている。


<――世の中には想像以上に美しいものが溢れてる。幸せなんてそれに気付けるかだけなんだよなぁ>


 シギタス氏は本棚から分厚い本を取り出すと、ヴォルゴグラードに建てられた巨大な女戦士像の写真を見せてくれた。ママエフの丘に立つその女戦士像は全長85m。右手に剣を高々の構え、凄まじい形相で地の果てを睨みつけている。「たとえ最後の一人になっても戦い続ける!」という叫びが聞こえてきそうだ。


 オーストラリアから帰国した俺を待っていたのは「スナフキン先輩失踪」という衝撃的なニュースだった。

 学習院の哲学科を出たスナフキン先輩は、よく読み終わった本を俺にくれた。旅の話もよくしたが、ジョッキの泡がすっかり消えてしまうのも気にせず本の感想を述べあったものである。


<――戦ってみなけりゃ敵の大きさなんてわからないもんさよ>


 いつだったか、セブンスターを燻らせていたスナフキン先輩が急にさみしげな表情を見せたのを覚えている。

 スナフキン先輩はたった一人で何と戦っていたのか。今でもこのZippoライターを握りしめるたびにその問いが浮かんでくる。ただ、どうして最後の一人になるまで戦い続けなければならなかったのか。どうして逃げ場がなくなる前に俺に声をかけてくれなかったのか――。彼の分まで背負って旅を続けているという認識はないが、帰国しても旅の報告をする相手すらいないのはさみしい。


 ネフスキー大通りに舞う雪が本格的になってきた。今日は観光はやめよう。アールグレイの香りを愉しみながら、知らない誰かとタバコを分け合うだけの日があってもいい。


<――おいおい、ズル休みじゃねえの?>


 スナフキン先輩はどこか自嘲的な笑い方をする人だった。

 灰皿を引き寄せると、彼が託してくれたZippoライターでメンソールに火を灯した。

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