2001年2月9日

「――パパに電話します。警察にもたくさん知り合いがいるので」


 何かしら言い淀んでいる俺を無視し、シモナ嬢は亜麻色の髪を耳の後ろに流すと携帯電話を取り出した。

 故郷シャウレイの両親を紹介したいと彼女から誘いを受けていた。ありがたい話しだが、さすがに昨日今日知り合った女の子の家について行くわけにもいかず、「大使館から遺失物についての連絡も来てないので」とお断りした。するとその話を聞いたシモナ嬢はすぐに有力者である父親を動かして警察に問い合わせてくれた。教室の外でしばらくやり取りをしていたが、彼女は戻ってくるなり「見つかったそうです」と事もなげに言った。

 喫茶店に置き忘れたポーチは、次にそこに座った学生が近くの警察に届けてくれたらしい。その清廉潔白な若者にいくらか包んでやりたい。あの雪の中わざわざ交番まで届けてくれた親切に心が温まる。――どうだ、ワルシャワのミロスワフよ。リトアニアはキミたちが妄想するような無法地帯ではない。


 首都ビリニュスへの道はシャウレイとは逆方向であるにもかかわらず、クラウス氏は小さな微笑みを浮かべただけで車をUターンさせた。


「――カウナスを出発されたと聞いてからすぐに警察署から届けられました」


 日本大使館の松永氏は警察から預かったポーチを持って待っていた。たかだかライターひとつのために多くを煩わせたこと思うと消えてしまいたい。慌ててカウナスを去ることになった俺に駒田氏が託してくれた包みがせめてもの救いだった。中身は先日交流センターでいただいた「ようかん」の残りである。


駒田アイツは生徒たちに何か作らせるとこうやって届けてくるんですけど…」


 ほとんどは失敗作だという。先日届けられた水まんじゅうなど、箱の中で溶けてエイリアンの死体のようになっていたらしい。ともかく松永氏と堅い握手をして別れると、ふたたびシモナ嬢が待つ黒のボルボに戻った。彼女の故郷シャウレイ行きは確定したらしい。


「――ところで交流センターのメンバーとはうまくいってなさそうだね」


 ヴィリニュスから北へと向かう沿道には白樺の並木が続いていた。シモナ嬢は窓をなでる粉雪を眺めたまま答えた。


「あの人たちはただ一日中アニメの話さえできていればそれでいいんです」


 独立から10年。豊かさを追求する競争社会はこの素朴を愛する国の原風景を大きく変えてしまったという。ともあれ他人のモチベーションなど放っておけばよいのだが、ああいう表面的な人たちには我慢できないと態度に出してしまうところに彼女の若さゆえを感じる。


「旅をしていると友達って増えるの?」


 シモナ嬢は澄んだ目でこちらに向きなおった。一瞬真剣な表情を作ったが、それはどうかなと俺は笑った。

 突き抜けてしまった杭に憧れて、他人との共感を切り捨てて旅に出た。恋人を泣かせ、友人の声を無視し、家族の心配を顧みず、ただ己一匹の命の輝きを崇めてきた。その結果東京に帰っても旅の話を聞かせる相手もなく、無事に帰国を確かめ合う肌のぬくもりもない。そうした自己完結こそ強さであり、他人の口に合った味付けにすることで薄まってしまうと信じてきた

 しかしどうも様子がおかしい。笑い合ったりぶつかり合ったりすることは、それほど無意味なことなのだろうか。あるいはそうして得たさらに一段深い「孤独」とは、単なる頑迷さではないか――。


「大事なのは共通の優先順位を持っていることってパパが言ってたわ」


 そう。優先順位が違えば行動も結論も変わってくる。あれだけたくさんを共有してきた人と離れてしまったのは、性格や価値観の違いというより優先順位がずれてしまったから

だ。しかしそれについて俺は十分に話し合おうとしなかった。どうして俺の邪魔をするのか――。そしてまるで線路に飛び出してきた小動物のように簡単にひき殺してしてしまった。

 しかし繋がっているからこそ成し遂げられる大きさは存在する。この旅に出て以来ふつふつと沈んでいたものが湧き上がっている。


「――今走っているこの道は”人間の鎖”があった場所です」


 独立運動のさなか1989年8月23日ソビエトからの脱退独立を求めてヴィリニュスからエストニアの首都タリンまでを結ぶ600キロに、リトアニア・ラトビア・エストニアの国民たちが沿道に手をつないで並んだ。世界はその光景を「人間の鎖」と呼んだ。

 クレムリンが戦車を送り込んでくるという噂が出た。しかし国境を越えて連帯した200万人が自分の命よりも独立を優先させた。ヴィリニュス封鎖に駆け付けた父を除き、当時9歳だったシモナ嬢も母親に連れられシャウレイ郊外の沿道に立った。


 もしそこに居合わせたら、俺は見ず知らずの誰かと手を取り合うことができただろうか――。きっと自分の殻に閉じこもり、「その日はちょうど都合がつかない」などと逃げただろう。


 執事のクラウス氏は白い手袋をはめてハンドルを握りながら、ふたたび雪に変わりそうな雨空を眺めている。


「わたしも友達が少ないから友だちになってあげましょうか?」


 いかにもお嬢様風の上から庶民を眺めるかのような言い方だったが、その奥の深緑の瞳は楽しそうに揺れていた。俺は軽くうなづくと「ぜひ」とほほ笑んだ。

 粉雪はいつの間にか大粒に変わっていた。彼女は前方の森を指さすとその先がシャウレイですと嬉しそうに言った。蒼く黒い林の先に街の灯りが見える。それは柔らかく温かい光だった。

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