2001年2月10日

 ソブタス家の邸宅はシャウレイ中心部から車で20分ほど離れた湖のそばにあった。かつてポーランド貴族の別荘だった中庭には、春になれば色を放つであろう花壇と、それで囲むように小さな噴水が今は雪の中にいた。


 母親のイローナ氏はまるで再会した息子のように俺を抱きしめた。熱烈な歓迎に、半年程度のラジオ・ロシア語講座では自己紹介が精いっぱいである。


「(お話になりたいことがございましたら、わたくしがお手伝いいたします)」


 流ちょうな英語に振り向くと、執事のクラウス氏がそこに立っていた。


「クラウスさんは元々ヴィリニュスの大学で英語を教えていたの」


 シモナ嬢は玄関から飛び出してきたテリア犬に顔を舐められながら戻ってきた。

 クラウス氏は旧ソ連時代に反政府活動で失職した後、執事兼家庭教師としてソブタス家に仕えることになったという。「(わたくしの話はその辺で)」とほほ笑むとクラウス氏は部屋から出て行った。

 その扉から小さな女の子が顔だけ覗かせていた。立ち上がってお辞儀をすると、小さなオバケのようにサッと姿を消した。


「ナタリア!ちゃんとご挨拶しなさい!」


 姉に叱られると女の子は母親の後ろに隠れた。この内気な11歳は、3年前バルセロナからヨーロッパチェス大会のトロフィーを持ち帰っている。日本にも似たようなゲームがありまして、と話しているうちにチェス盤が運ばれてきた。将棋には多少腕に覚えがあったので、早速テーブルをはさんでこの女の子と向かい合った。数手目、クイーンを効かせた位置にビショップを動かした時、彼女は初めて口を開いた。


「(一気に殺されたい?それともゆっくり殺されたい?)」


 まるで拷問にかけられるスパイである。しかし彼女は表情ひとつ変えずルークを差し出すと、その隙にできた小さなほころびにビショップを効かせあっという間にナイトとクイーンで切り込んできた。ムキになって再戦を申し込んだが、弱すぎる相手に興味を失った彼女は鼻歌を歌いながらどこかへ行ってしまった。

 その後父親のシギタス氏が帰宅してきた。感染症の第一人者として国内外を飛び回っている。敬意をこめて「ドクター」と呼んだが、「そんな呼び方はやめてくれたまえ。キミはもう家族の一員なんだから」と笑って躱された。


 燭台の灯された広いテーブルにいくつもの皿が並んだ。森と湖の国とたたえられるリトアニアの郷土料理はどれも素朴な味わいだ。


「これはツェッペリナイ。ジャガイモをすりつぶして練り固めた中にひき肉を入れて茹でたもの」


 ニョッキのようなもちもちとした食感が面白い。他にキノコのピクルスや、ニシンのマリネ、ルビー色のボルシチなどが並んだ。

 ふとシギタス氏が、新婚旅行でサハリン(樺太)に行った時に日本を見たと話し始めた。恐らくサハリンの最南端から43キロ先にある宗谷岬のことだろう。


「――ですが、サハリン南部はまだロシアでも日本でもない地域です」


 ここは日本人として一言付け加えておかねばならない。

 日露戦争後のポーツマス条約により、日本は樺太の北緯50度から南を国土として編入した。その後1951年サンフランシスコ平和条約において、日本は千島列島および樺太南部の権利や請求権を放棄した。ただし北方領土に関する日本の主張は、①樺太南部および千島列島については引渡先のない空白地であり、サンフランシスコ条約に署名もしていないロシアに領有主張の根拠はなく、②また放棄した千島列島には北方4島(択捉、国後、色丹、歯舞)は含まれていないというものだ。

 シギタス氏は難しい顔をして黙っていたが、やがて微笑みながら会話を引き継ぐと「――ナショナリズムとは」と語り始めた。


「日本の複雑な立場もわかるがいまいち気持ちが伝わってこない。我々はナショナリズムを掲げてクレムリンと戦った。ソ連軍が入ってきた時も命を捨てる覚悟でヴィリニュスに駆けつけたものだ」


 1991年1月13日の「血の日曜日」のことである。雪の降りしきる中、国会議事堂に集まった数万人が祖国の歌と独立を叫んだ。その膨れ上がった群衆の中にこぶしを突き上げる若きシギタス氏の姿もあった。


「こういう話になるとパパはいつも”ナショナリズム”っていうけど、それは違うと思う」


 ずっと黙っていたシモナ嬢が顔を上げた。


「国のために戦うことは素晴らしいことだけど、それから10年経ったけどリトアニアは方向性すら見いだせていないわ」


 ある意味事実である。リトアニアだけではなく東欧各地で右派ポピュリストが台頭している背景には経済格差による愛国主義のまん延がある。国としての方向性が見いだせていないことが原因とシモナ嬢は切り捨てたが、シギタス氏も黙っていなかった。


「リトアニアは生まれたばかりの赤ん坊ではないよ。1000年近い歴史がある国だ」


 ふたりとも一歩も譲らず視線をぶつけたまま沈黙した。


「…失礼。ちょっと白熱してしまったようだね。明日は郊外にある『十字架の丘』を見に行くといいよ」


 シギタス氏はクラウス氏に何やら耳打ちすると席を立った。


「おやすみ。キミが見てきた世界をぜひ娘たちにも聞かせてあげてほしい」


 そういって俺の肩をポンと叩くとシギタス氏は部屋を後にした。その扉を見つめていたシモナ嬢は静かに繰り返した。


「…戦い続けることがすべてじゃないわ」


 ――戦い続けることがすべてではない。

  俺はおもわず足元においた旅行カバンを見つめた。

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