2001年1月31日

 ロンドンを出発したバスは車体ごと大きな貨物船に乗り入れた。

 深夜1時半。氷点下のドーバー海峡で見るべきものなど何もなく、ただ黒く沈んだガラス窓を眺めている。バスは暖房をつけたままサイドブレーキを引くと、照明を半分落として静かになった。

 予報によればパリは粉雪らしい。そのためか、凍えるパリ行きの夜行バスはガラガラだった。


「――前にも聞いたけど、タケさんのこと嫌いでしょ?」


 何も答えず目を閉じる。ロンドンを出発する俺とサユリさんに対するヒッピー野郎のしつこさは感情的にさせるレベルだった。金曜の追試が終わったらパリまで車出すからそれまで待ってほしい、とサユリさんにすがってきたのである。ところが過ぎたしつこさにとうとう判決が下された。


「放してください!わたしは今夜彼とパリに行きます」


 稲妻に打たれたチンパンジーは腹いせに俺を睨んだ。やがてヒッピー野郎は大げさに息を吐くと急に陽気な声を出した。


「じゃあベルリンまで会いに行くよ!もともとストックホルムからウィーンまで行く予定だったんだけど途中で余計な邪魔が入っちゃったから」


 とは追試と書き直しを命じられたレポートのことであって、まさか俺のことではあるまい。そう思っていたが「アンタはベルリンの後バルト三国だもんね?」と勝ち誇った笑みを向けてきた。どうやらがいなくなった後ゆっくり巻き返すつもりらしい。


「…わかりました。じゃあベルリンで」


 今度は俺がサユリさんを睨む番だった。こんなチンパンジーなど放っておけばいいだろう。律儀さもここまでくるとおめでたい。

 何が気にくわないかといえば、ああいう手合いと一緒に括られることだ。ヒッピー野郎が謳う「ジユウ」の3文字とは、空っぽの段ボールのように寄りかかればつぶれてしまうようなハリボテだ。そういう輩と等しく「バックパッカー」というラベルを貼りつけられることに鳥肌が立つ。



「――少なくともわたしはあなたとタケさんを同じだなんて思ってないよ」


 ロンドンから持ってきたマンダリンを一つ俺の手に乗せると、サユリさんは断ち切るように言った。


「だけどわたしはあなたにも不満がある。わかるよ、タケさんのああいうだらしない感じはわたしも好きじゃない。でもどうするか決めるのはわたしでしょ?」


 サユリさんは小学校の校長だった父親を引き合いに出した。


「お父さんはいつも”こうするべきだ”とか”おまえは女なんだから”ってうるさかった。確かに男の人と付き合ったこともないし旅も初めてだけど、ちゃんと自分で判断していきたいの」


 どうやら俺は、”あなたは世間知らずで守ってあげなければならない存在”とうメッセージを送り続けていたらしい。彼女は認めてほしかったのだ。あなたは充分理性的で行動力があり、お父様の心配など無用と断じてほしかったのだ。

 しかし下心丸出しチンパンジーとのやりとりといい、傍で見ていていちいち危なっかしい。「だから」だったのだが、もう小姑のようにうるさく振る舞うのはやめよう。


「…わかりました。サユリさんのこと守らなきゃっていう気持ちが行き過ぎてました。嫌な思いをさせてごめんなさい」


 行動を共にするうちに、お互いが別々の存在だということを忘れていた。そもそも一人になりたくて周囲の反対を押し切って旅に出たのだ。誰かと何がしを共感するためにここにきているわけではない――。



 …何を踏んだのか、バスが大きくバウンドして目が覚めた。早朝5時を少し回っていたが、粉雪舞うパリはまだ眠りの中だった。

 サユリさんはこちらの肩にもたれて温かくなっていた。バスの揺れに合わせて顔を覆った黒髪が揺れている。そっとしておこうと思った瞬間、彼女はハッとして顔をあげた。


「…ごめん、つい」


 口元をぬぐいながらサユリさんは大げさに俺の肩から離れた。


「おはようございます」

「…おはよう」


 消え入りそうな声が少しだけ距離を縮めてくれた気がした。

 温かいバスから凍える早朝に放り出されたふたりは、白い息を吐きながらまだ明けきらぬパリを見回した。夜の間静かに舞い降りた雪が、路面を薄っすらと白くさせている。

 メトロ駅に向かって歩いている途中、バス停の外にウロウロしている一団と鉢合わせた。大きな荷物を背負ったホームレスたちである。そのうちの一人に声をかけられたサユリさんは驚いて足を固まらせてしまった。

 なおも別の一人が卑猥な笑みを浮かべながら手を伸ばしてきた。サッと割り込んでその手を薙ぎ払うと、相手の喉笛を見据えて拳を固めた。いつでも繰り出せるよう右手を軽く握ったが、酩酊した彼らは何やら下品な言葉を投げつけると、薄ら笑いを浮かべて去っていった。


「さっきはありがとう…」


 始発待ちのベンチに腰を下ろしたが、サユリさんの体はまだ小刻みに震えていた。遠くで靴音がするたびに彼女はハッと顔を上げている。


「――昨日の夜は言いすぎてごめんなさい。なんだかここ数日イライラしてしまって…」


 サユリさんは俺の背中に隠れてか細くつぶやいた。黒髪に覆われたその表情は見えなかったが、俺は小さく頷いた。嬉しいような、うっとうしいような、久しぶりに味わう不思議な高揚感が俺をくすぐった。

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