2001年2月2日

「…さすがに今日は歩いたね」


 ベルリンまで夜行列車を選んだのは正解だった。ルーブル、オルセー、オランジュリーという3大美術館を一日に詰め込んでのパリ最終日だっただけに、足を投げ出して休める空間が必要だった。

 寝台車の4人用コンパーメントに他の乗客はいない。サユリさんは素足になってしばらくおしゃべりを続けていたが、横になるとすぐにそのまま静かになった。そっと部屋の灯りを消してコンパートメントから抜け出すと食堂車に向かった。キツめのメンソールをくわえて灰皿を引き寄せる。だがすでに体中に回った眠気が重くのしかかっていることに気付き、大人しくベッドに戻ることにした。

 静かにドアノブを引いた。が、生着換え中だった裁判所事務官殿はギャッと悲鳴を上げた。


「ノックぐらいしてよ!女性と暮らしたことないの?」

「…一応ありますよ」


 サキは全裸のまま平気で部屋を横切れる女だった。洗った下着もドアノブに引っかけて干すような感覚の持ち主だ。


<――うるさいなぁ。楽だからいいじゃん!>


 サキのふくれっ面が浮かんで消えた。そんな同棲生活において、”部屋に入る前にはノックをしましょう”などとあまりにもお上品すぎた。

 

「どうしてその人と別れちゃったの?」

「…全部俺が悪かったんです」

「裁判でも男の人ってよくそうやって逃げるよね」


 裁判所事務官殿の尋問は手厳しかった。結果、昨晩こっそりホテルを抜け出し公衆電話を探してさまよっていたことを告白することになった。


 だらしないところも含めてサキの全部が好きだった。これまで”俺が守ってあげる”という恋愛ばかりしてきたが、サキとは一緒に楽しい未来を一緒に描いていけそうだった。

 にもかかわらず、どうして<今すぐ会いに行くよ>とひと言送ってあげられなかったのか。自分の正義を疑うことなく、彼女を安いアクセサリーのようにテーブルの上に置きっぱなしにした。その結果彼女を失ったわけだが、その後も「もう恋愛などしない」と悟ったふりをすることで自分の幼さについてなかったことにしてきた。

 しかし昨日凱旋門から見たものは美しいパリの街並みなどではなく、失ったものの大きさだった。ようやくそれを自覚するに至ったが、今頃になって一体サキに何を言えるというのか――。


「…ゴメン。サキ」


 一度は手に取った受話器を元に戻すと、コインを握りしめたまま冷え切ったパリの夜道を引き返した。



「――そういうことだったのね。ゴメンね、勝手に思い出の邪魔しちゃって」


 さすがにサユリさんも勢いを失った。しかしもう後悔することはやめた。いつかサキに再会することがあったら、その時は素直にあの頃の未熟さを謝ろう。ただしそれはお互いの輪郭が思い出せなくなるほどずっと先のことであってほしい…。


 列車はすでにドイツ国境をまたいだようだ。サユリさんはガタゴトという列車の揺れを聞きながら天井の一点を見つめていた。


「…わたし、ずっと一人かもしれない」


 彼女は深いため息のあと奇妙な絶望感を語り始めた。


「こういう性格だから適当にやり過ごすとかできないの。人に甘えたり、素直に弱いとこさらけ出せたり、そうすればもっと楽に生きられるのは分かっているんだけどね…」


 彼女は正しさへのプレッシャーのため、根拠のない罪意識を背負って生きてきた。それは汚れた人生を歩むよりもずっと疲労を伴う道なのかもしれない。


「正しいかどうかじゃなくて、誰にも関心を持たれないって寂しいよ」


 凛として決して姿勢を崩さない彼女の中に、こんな敏感でやわらかい部分が隠されていたことに驚いた。サユリさんはひとつ鼻をすすると、消え入りそうな声で続けた。


「あなたを見てると何となく自分自身を見ている気持ちになる。孤独を好むところも真っ直ぐ過ぎるところも。でも安心すると同時にとても不安になるの」


 彼女は体をこちらに向けると、はっきりとした声で言った。


「あなたは一途だと思うけど、それって自分のスタイルに一途ってだけじゃないの?」


――自分のスタイルに一途なだけ、か。

 それは間違いなく彼女自身にも向けられていた。サユリさんは今まさに自分を律してきたものを捨てようとしている。しかしそう簡単にいかない厚みも分かっているからこそ、当座しのぎで俺に向かってそう責めたのだろう。ただ、サユリさんは自分自身を犠牲にしてきたのに対し、俺は友情や愛情をなぎ倒してきた。

 果たしてそこまでして守らなければならないものだったのか――。友人の助言を面罵し、小さなゲストハウスの夢を共有してくれたサキを捨て、それでも今目の前にある名も知らぬ夜の静けさのほうが意味があったというのか。その愚かさを、サユリさんは「あなたは自分のスタイルに一途だっただけ」という淡白な表現で突いた。


「他人が入ってくると濁ってしまうと思ってた。そう信じることで自分を守ってきたけど、本質的にはあなたもわたしと一緒。似た者同士だよね。でもだからこそお互いのダメなところを指摘し合えるとも思うの…」


 サユリさんは寝返りを打つと深いため息をついた。俺は真夜中を過ぎていく列車の揺れを聞いていた。やがて、かすれた声が言葉を継いだ。


「…おやすみなさい。ミスター・ロンリー」


 彼女はそうつぶやくと闇の中に消えていった…。

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