2001年2月3日
血まみれになってこのユースホステルのロビーに駆け込んだのは2年前のことだった。スキンヘッドの少年たちに襲われ、右足にガラス片を刺したまま無我夢中で逃げてきた。翌朝にはさっさとワルシャワへ逃げてしまったので、ベルリンでは何も見ていない。
「おやおや!どこかで見かけた美男美女カップルじゃないの!」
ロンドン・ベルリン間1,000キロをたった10時間で追いかけてきた執念には戦慄を覚える。ヒッピー野郎はロビーにいたサユリさんを舐めるように眺めるとニヤニヤした。やはりベルリンは呪われている。
「――ねぇサユリン、美術館だの博物館だのマジつまんねぇし。もう他んとこ行かね?」
ペルガモン博物館の見どころは、地中海を囲むヘレニズム文化とイスラム美術の祭典である。しぶしぶついてきたヒッピー野郎は、正面ホールを飾る大祭壇や古代バビロニアの城門を前で「ご立派、ご立派!」と手を叩き、終始無礼を取り続けた。
それもこれも律儀に下心丸出しのチンパンジーに宿泊先を伝えたサユリさんのせいである。しかし彼女は立ち止まると冷めた表情でこちらに振り返った。
「わたし、一人で観るので」
なにも俺まで追い返すことはないだろう。しかしヒッピー野郎の無神経な発言に気分を害したサユリさんはスッと俺の横を通り過ぎていった。ようやく出口に向かい、「次はボーデ博物館に行こうかな」というサユリさんをヒッピー野郎は無理やり近くのカフェに連れ込んだ。
「なんつーか、サユリンの旅ってマジメ過ぎじゃね?」
今朝のベルリンはマイナス3度。湯気を立てて運ばれてきたカフェラテに口を付けると、ヒッピー野郎は大げさな声をあげた。
「じゃあ逆にタケさんの旅の目的はなんですか?」
サユリさんは上手に切り返した。ヒッピー野郎はしゃがれた声で笑うと、断りもなくタバコを引き抜いた。
「まぁしいて言えば死ぬために旅してるって感じ?」
「死ぬために?」
真面目に取り合うサユリさんにも腹が立つ。こんな薄汚いチンパンジーに発言の機会など不要だ。
「そう。食べたいもの食べて行きたいところ行って。どうせいつか死ぬんだから人生使い切りたいじゃん?」
案の定くだらなかったが、ふとヒッピー野郎と同じようなことを吹聴していた自分を思い出した。
<――この超就職氷河期に自分を安売りしてまで社会になんか出る意味なんかないだろ?俺は俺の道をいくぜ>
放課後の教室でそんなことを豪語していた。ところがそんな俺の自分語りに付き合ってくれていた連中は、また一人また一人と内定を勝ち取り、気づけば誰もいなくなった食堂でひとりノートに夢の続きを描き続けていた。
「――まぁ心配しなさんな。ウィーンまで車で連れてってあげるから。それにアンタはこのあとバルト三国だろ?あっちは治安悪いからお気を付けて」
こちらを見やるとヒッピー野郎はハエでも追い払うような手付きを俺に向けた。しかし俺もコイツも「ミスター・ロンリー」なのだ。己に酔いしれているが、実はたまらなく誰かに理解して欲しいのだ。
俺はこの1年、どうにか夢から覚めさせようとしてきた恋人や友人を「妨害者」として遠ざけてきた。頼むから俺を巻き込むなと周りを威嚇してきた。そして望み通り独りになったのだが、ふと「何のために旅をしているのか?」と根源的な質問を向けられたとき、浮かんでくるのは自分を認めてくれない周囲への不満ばかりだった。
だからこそ「もっと楽しく生きなきゃ損」と道化を賑やかに飾り立て、近づいてくる者をどうにかこちらの世界観に引きずり込もうとする。俺もそこのチンパンジーも、そうやって必死に孤独を否定してきたとは言えないだろうか。
夢を持つことは間違いではない。薄々気付いていたが、俺は夢との接し方を間違えていた。言葉にすることで薄っぺらさが露呈するのを恐れ、周りを遠ざけることで安心領域を守ってきた。サキとのことも自分以外に興味を持とうとしなかった結果であった。
「…どうしたの。大丈夫?」
サユリさんの声にふと我に返った。窓の外には冷たいベルリンの夜が迫っており、どこかで教会の鐘が鳴っていた。
「実はもう旅をやめようかと思ってて。旅のせいで大切なものをずいぶん失ってきた気がします」
――なぜそんなことを口にしてしまったのか。しかし言葉にした途端、ふと心が軽くなった気がした。
「はいはいやめな。そんなに深刻に考えちゃ旅なんてつまんないし」
ヒッピー野郎はタバコをくわえたままサユリさんに近づき、「もう面倒くせー話しはやめて二人だけでどっか行かね?」と馴れ馴れしく彼女の肩を揉み始めた。
ところがその瞬間、サユリさんはスッと立ち上がるといきなりヒッピー野郎に数発平手打ちを叩きつけた。
「汚らわしい!さわらないで!」
凍りついた店内で、サユリさんは構わずテーブルのコーヒーカップに手を伸ばした。慌ててその手を掴むと無理やり彼女を引き剥がした。
「クソどもが!勝手にしろ!」
ヒッピー野郎はまともに喰らった鼻を押さえながらうずくまった。俺はサユリさんと荷物を抱えるとそのまま出口へと向かった。
店の外は凍りつくほど寒かった。俺はコートを広げると、拳を握ったまま肩で息をしているサユリさんの両肩を包んだ。
「すごく寒いね…」
彼女はひとつ鼻をすすると足元に視線を落としたままそうつぶやいた。群青色の寒さが、よく似たふたりを寄せ合わせた。
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