2001年2月4日
今朝のベルリンもついカフェに逃げ込みたくなるような冷え込みだった。サユリさんはアールグレイを、俺はカプチーノを注文すると向かい合って座った。
「沢木耕太郎の『深夜特急』に”人の親切がうっとうしくなる”っていうのがあったけど、インドに行くバックパッカーってみんなそんな感じなの?」
「バックパッカーに人格者なんて求めないほうがいいですよ」
ヒッピー野郎のフォルクスワーゲンは、朝になるとホテルの駐車場から消えていた。昨日の一件についてあれ以来話していない。サユリさんが戦ってくれた俺のプライドも、そしてカフェの外で「寒いね」と寄り添ったことも、手つかずのまま昨晩に置きっぱなしにしてある。そして俺は今夜の列車でワルシャワに向かい、サユリさんは明日の朝最後の目的地であるウィーンに向けて出発する。
「サユリさんが言うように僕は人嫌いかもしれませんが、誰かと旅をするのも悪くないなと思うようになりました」
唇に付いたカプチーノの泡を拭うと、この10日間の短い感想を伝えた。
「わたしも…」
似た者同士が、似たような感想を共有した。サユリさんは視線を外すと窓の外を見た。そこには分厚い雲間から淡い光が差し込んでいた。
ブランデンブルク門は18世紀末に建てられた税関所だが、しばし「戦争と平和の象徴」として登場する。ナポレオンやヒトラーが幾万の先頭に立ってここをくぐり、ベルリンの壁崩壊後の1990年には新時代突入を祝い、ここでベートーヴェンの『第九』が演奏された。
が、今日そこはブルーシートに覆われていた。改修工事中だという。しかたなくそのままウンターデンリンデン通りに出て、冬枯れの菩提樹の下を並んで進んだ。
「わたし、こういう女だから一緒に旅行していてつまらなかったよね」
こういう女とはどういう女かと言葉を選んでいるうちに、彼女は顔を覆ったマフラーの中でさらに続けた。
「わたしは人を好きになっても自分から伝えるなんてできないけど、その代わりどんどん攻撃的になってしまうんだよね」
それはいいやり方ではないですねとようやく発言すると、わざと大袈裟に笑った。
「そうだよね。それがわたしなりの気付いてオーラなんだけど、そんな女ってやっぱり気持ち悪いよね」
この話題を一刻も早く終わらせるため「だいぶ気持ち悪いです」と真顔で蓋をした。普段なら睨み返してくるところだが今日の彼女はおとなしい。
「わかっているの、すごく不器用だって。でも人を好きになってしまう。なぜなの?」
真っ直ぐに向けられた視線を躱すと、「寒いから少し休みましょう」と目の前に現れた大きな教会を指さした。
ベルリン大聖堂の中は温かかった。氷のように冷えた耳を手で覆いながら華麗なドームを見上げる。パイプオルガンの細かい光と影が天まで続いていた。
「サユリさんってこういう場所が似合いますね」
隣に座った彼女にそっと耳打ちした。
「わたしって法律ぽいってこと?」
その表現に吹き出した。サユリさんは裁判所事務官という肩書を外したとしても、正義について四角四面なところがあり、ゆえに判例集を逆さに振っても出てこないような例外に弱い。
「旅をするのも、人を好きになるのも、不器用なりに取り組めばいいと思います」
サユリさんは祭壇を見つめてしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。
「…たまに誰かに誘拐されないかなって思うの。いきなり車に押し込められて、知らないどこかに連れ去られる。そういう強制的な何かが起こらない限り、わたしの人生ってこれからもつまらないままだと思う」
彼女の「あるがままに生きたい」という悩みは、誘拐犯に身をゆだねたくなるほど深刻らしい。
「あなたが言っていたとおりやっぱりわたしは変われなかった」
サユリさんは力なくうなだれた。
「誰にも頼らずこの旅を完成させたかったけれど、ずっとあなたに頼りっぱなしだった。明日から一人だと思うとすごく心細いよ」
たしかにふたりは似た者同士だ。不器用で、傷つきやすく、そして疲れやすいバランスの取り方をする。もっと楽な生き方はたくさんあるだろう。だが無理にそれを真似して、かえって自分を嫌う必要もない。変化しようとする者だけが、周りに影響を与えられるのだ。
「――死ぬほど伝えたいことって祈ったら伝わるのかな?」
サユリさんは祭壇の前で手を合わせて膝まづいている老婆を見つめた。
「伝わる相手には祈らなくても伝わるはずです」
と言った瞬間、彼女は俺の手の甲にそっと右手を重ねた。その指先はまるで血管まで凍り付いたかのように冷たかった。祭壇に顔を向けたまま、彼女は長い呼吸を繰り返した。その呼吸の中にどんな祈りが籠められているのか知りたくて、そっとその手を握り返した。
だが今は強く握り返せない。互いを補い合えることが分かった。今はそれで十分だ。どのぐらいそうしていただろう。サユリさんは急に立ち上がると、「そろそろ列車の時間だよ」と微笑んだ。
「…その前にひとつ」
教会の外へと歩いていく彼女の背中を呼び止めた。
「大聖堂の外で一緒に写真を撮りませんか?」
サユリさんは何とも言えない表情で俺を見ていたが、やがて視線を足元に落としたままボソボソと答えた。
「いいよ。でもちゃんと笑ってね」
彼女は手に持ったラビットファーの帽子をギュッと握ると、ふたたび背を向けて歩き出した。
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