2001年2月5日

 気の早い夜がワルシャワ旧市街の石畳に長い影を落としている。メニューの中にアールグレイを見つけると店員に手を挙げた。向かいの席には、誰もいない。

 サユリさんの注文はいつも決まっていた。砂糖もミルクも入れないアールグレイ。ミルクを入れるとせっかくの香りが遠のいてしまうと頑なだった。俺もこれからは紅茶にミルクを足すのはやめよう。


 頭でっかちで自信家。正義のために死にたがるジャンヌダルク――。


<わたしって法律ぽいってこと?>


 ベルリン大聖堂の礼拝堂でサユリさんが見せたのは、ひどく自嘲的な表情だった。

 彼女は変化を求めていた。しかし旅でしばらく日常を忘れたぐらいで人は変われない。ただ、彼女にとって決して収穫のない旅ではなかったはずだ。そしてそれに巻き込まれた俺にとっても少なくないものを与えてくれた。

 

<――あなたは自分のスタイルに一途だっただけ>


 世界を自分なりの言葉で捉えることは大切だ。俺もサユリさんも自分なりのスタイルにこだわって生きてきた。そして自分を大きく変えてくれる事件を求めてひとり旅に出た。しかし「強さ」とはそうした行動力ではなく、自我を一旦忘れ、他者をありのまま受け入れることである。

 ――旅をやめよう。そう思い至ったのは、旅を続けることで誤魔化してきたものに気付かされたからだ。ふたりはよく似ている。だからこそ写し出された本来の姿に多くを気付かされた。離れてみると、あの黒髪も少し鼻にかかった声も妙になつかしい…。



「やぁ、お久しぶりです!」


 肩に置かれた手に振り返ると、そこに懐かしい顔があった。ドジクル・ミロスワフは毛皮の帽子を取ると俺を抱きしめた。

 2年前、大量のチキンナゲットを持ってワルシャワ大学をさまよっていた俺を救ってくれたのがミロスワフである。2年ぶりの再会に肩をたたき合って喜んだ。


「こっちは日本語学科の後輩たちです」


 コンニチワとやや硬い日本語が握手を求めてきた。大学を卒業したミロスワフは、今は日立の関連会社で両国の架け橋役を担いながら、空いている時間で後輩たちに日本語の指導を続けているという。


「――最近日本人のカノジョができましてね」


 後輩たちにはやし立てられたミロスワフは、手帳に挟んだ一枚を恥ずかしそうにテーブルの上に晒した。お相手は大阪からワルシャワに出向している広告代理店の社員らしい。瓜実顔のなかなかの美人である。


「しかもですね、彼女の名前はアキコ(明子)って言うんです」


 『進ぬ!電波少年』の松本を、”太陽のような人だ!”と祀ってきた男である。ふたたび手帳を開いたミロスワフは、中から小さく折りたたんだメモを広げた。それは2年前「”じゃじゃ馬”とはどんな馬ですか?」と質問され、ノートの切れ端に俺が書いたメモだった。彼はいまだに”じゃじゃ馬”のことを<明るくて元気な女性>と無邪気に誤解しているらしい。それもこれも、全部松本明子のせいである。


 ポーランドの発展は目覚ましい。この2年のプラス成長はヨーロッパ全体の成長率を上回っている。


「ドイツ車のエンジンや部品はすべてポーランドで作られています。ドイツの好景気に引っ張られてポーランドの失業率も大幅に回復しました」


 失業率どころか、むしろ働き手が足りないぐらいですとミロスワフは付け足した。ぜひ今回はそんなワルシャワの賑わいを見て行ってほしいと言われたが、あいにく明日には移動しなければならないことを告げた。


「――え!リトアニアに行くんですか!?」


 通訳を通して聞かされた後輩たちも眉間にシワを寄せてささやき始めた。


「リトアニアは治安が悪い国です。できれば通り過ぎたほうがいい」


 テーブルの上で指を組むと、ミロスワフは前かがみになって警告してきた。


「ポーランドに仕事を求めて隣のリトアニアから多くの労働者が来ていますが、彼らのせいで治安が悪化しています」


 先日の強盗殺人事件の犯人もやはりリトアニア人でした、とミロスワフは眉をひそめた。


 14世紀末ポーランド王女がリトアニア王に嫁ぎ、ポーランド・リトアニア共和国が成立した。最盛期には現ウクライナやベラルーシを含む広大な領土を有する大国であったことを覚えている人は少ない。その後18世紀末にロシアやプロイセンに解体されるまで、ポーランドとリトアニアは1つの国家として歴史を共有してきた。


「それがなぜ嫌い合うのです?」


 ミロスワフは話にならないという風に首を振った。

 第一次大戦後、荒廃したヴィリニュス(現リトアニア首都)を整備したのはポーランド人であり、その礼もないばかりか、現在も現地のポーランド系住民に対し差別的な政策が敷かれているという。しかし彼の言うこの1920年の出来事について、リトアニアは「ポーランドによる侵攻」と明言しており、どうもミロスワフたちの主張ばかりを一方的に聞くわけにはいかない。


 別れ際「どうしてもリトアニアに行かなければならないのなら」と、ヴィリニュスに住むポーランド人の連絡先を教えてくれた。まるで戦地に友を送り出すかのような大げさなお開きとなった。

 リトアニアの首都ヴィリニュス行きのバスは、明日早朝ここワルシャワを出発する。リトアニアが歩んできた道には、繁栄と滅亡、そして復活が織り交ぜられている。国家がたどってきた歴史もまた一つの旅である。

 闘うとは、自由とは何か――。バルト三国をめぐる旅はなかなか奥深い。

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