2001年2月6日

「…では、こちらにご記入を」


 担当者は<盗難・紛失状況報告書>という用紙を置くと別室に去っていった。日本大使館の応接室は日の丸が掲げられているわけでもなく、ごく機能的な事務机が一つあるだけだった。

 こんなことで職員の手間を取らせてしまって申し訳ない。ひとつ息を吐くと、用紙の<紛失>という文字を丸で囲った。


 ヴィリニュス中央駅に到着したのは午後3時過ぎだった。朝から何も食べていない。駅前ロータリーを渡ったところにカフェを見つけて空腹を満たすと、運よく停まっていたホテル方面行きのバスに乗り込んだ。

 水色のポーチをカフェに忘れてきたことに気付いたのは、すでに街はずれにさしかかった時のことだった。慌てて駅まで引き返したが、カフェの店員は首を振るばかりだった。

 ポーチ本体やパリで買ったタバコはどうでもいい。しかし一緒に入っていたZippoライターは取り戻さなければならない。あれは俺のものではなく、一人旅を教えてくれたスナフキン先輩のものだ。


<――ロシアで買ったんだぜ>


 スナフキン先輩はそのZippoライターに特別な思い入れを持っているようだった。勲章のようなデザインが施されており、中央にはソビエト共産党のシンボルである鎌とハンマーが据えられており、赤くひるがえった旗の中にはスローガンらしきキリル文字が刻まれていた。

 そのスナフキン先輩がバイト先の映画館から忽然と姿を消したのは、俺がオーストラリアに出発した直後のことだった。しかし半年もすると彼の話題をする者もいなくなり、とうとうスナフキン先輩の私物を処分する日になった。そのロッカーの中で例のZippoライターを見つけた。俺はそれを握るとそのままポケットの中に押し込んだ。

 返してほしけりゃ取りに来てください――。あれはタバコに火をつける以上のお守りである。旅先でうっかり失くしましたでは済まない。


「――で、そのライター以外に貴重品などは入っていましたか?」


 やや呆れた口調だったが、 <松永>という名札を下げている彼は親身に対応してくれた。ちなみに松永氏は大使館の正規職員ではない。在外公館派遣職員といい、外務省が主体となって募集された民間人である。卓越した語学能力を買われ、在外公館の現地サポートとして有期で派遣されている。松永氏は関西外国語大学ロシア語学科に在籍中、大学の掲示板でこの募集を見つけた。


「本当はモスクワかペテルブルグに行きたかったんですけど、たまたまリトアニアで空きが出たというので応募したのがきっかけでした」


 結果的に、かつて旧ソ連の一部だったリトアニアで彼のロシア語は大いに役立った。「とりあえず警察に問い合わせてみます」と松永氏は受話器を取ると、流ちょうなロシア語でやり取りを始めた。その間、俺は書架にあったリトアニアに関する本を手に取った。


 現在わずか6.5万㎢に収まっているリトアニアは、歴史に登場して以来何度も地上から消滅した。

 <かつてはバルト海から黒海まで治めていた>というリトアニア人の自慢は15世紀ヴィタウタス大公時代のことを指し、当時は現在のベラルーシやウクライナの一部を含む広大な領土を有していた。ところが18世紀になると、プロイセン(後のドイツ帝国)、ロシア帝国、そしてハプスブルク帝国といった強国に囲まれてしまう。ウィーン会議でポーランド・リトアニア共和国は解体。リトアニアはロシア帝国に吸収され、以後リトアニア語の禁止やカトリック信仰が弾圧された。

 再び独立を得たのは第一次大戦中のことで、ドイツがロシア領リトアニアに侵攻したのを機に、占領下のもとで限定的な議会が認められた。その後のドイツ敗戦で後ろ盾を失ったリトアニアは、ふたたびロシアやポーランドと国境を守る戦いを余儀なくされる。1920年ポーランドがスヴァルキ条約を一方的に破棄し、ヴィリニュスを占領。首都は第二の街カウナスに移された。

 第二次大戦中は忙しい。1939年ヒトラー・スターリン間で独ソ不可侵条約が締結。リトアニアはソ連の勢力下となるが、41年ドイツ軍のソ連侵攻により再びドイツ占領下となる。その後バルト三国は独ソの報復合戦の舞台となり、結果44年7月に再びソ連の一部として吸収された。

 しかしリトアニア人のもう一つの自慢は、ラトビアやエストニアに先駆け、いち早くソ連からの独立宣言をしたことである。1990年3月11日、リトアニア最高議会はソ連からの独立回復を宣言。これに対しゴルバチョフは経済制裁やKGB特殊部隊を投入したが、すでに内部統制力を失っていたソ連は、91年12月25日ついに自壊した。


「――時間があればカウナスに行ってみてください」


 戻ってきた松永氏は俺がテーブルの上に広げていた観光案内を覗くとそう言った。紛失物もすぐには見つからないと思いますしと付け加えると、松永氏は『カウナスへようこそ』という日本語で書かれたパンフレットを渡してくれた。是非行ってみますと答えると、彼はついでに一つの連絡先を書いてくれた。


「私の後輩がカウナスで日本語を教えています」


 メモには、松永氏の後輩という人物の名と共に、<ヴィタウタス・マグヌス大学 日本リトアニア文化交流センター『橋』>と書かれてあった。これが後々の人生において重要な意味を持つことになるとは、この時露にも思わなかった。

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