2001年2月7日
『うれしい』『かなしい』という平仮名の上に、いくつかの表情が描かれたイラストがマグネットで留められている。
「――さて皆さん。上のイラストと下の言葉を線で結んでいきましょう。ではユルギタさん、前に来てください」
ホワイトボードの前に立たされたショートカットの彼女は、しばらく悩みながらイラストと感情を表わす言葉を赤い水性ペンで結んでいった。
「はい、よくできました。でもここは惜しかったですねぇ」
講師役の駒田氏は、口をへの字に曲げたイラストと『おこった』を結んだ線を指さした。
「この絵は『おこった』ではなく『こまった』ですね。はい、皆さんこう覚えましょう。駒田(コマダ)、こまった!」
明らかにイラストの問題である。生徒たちは駒田氏の大袈裟な振りに合わせて「コマダーコマッタァ」と謎の呪文をつぶやくのである。
「いやぁ、言葉を教えるってホンマにしんどいですわ!」
日本・リトアニア文化交流センター「橋」の活動は、ヴィタウタス・マグヌス大学に留学した日本人によって紡がれてきた。毎週水曜日は大学の空き教室を使っての日本語教室の時間である。駒田氏は関西外大の先輩でもある松永氏の勧めもあってリトアニアに来たという。
しばらくすると、先ほどホワイトボードの前で恥をかかされたユルギタという学生が、水ようかんと熱いほうじ茶を盆に乗せてやってきた。
「こっちの学生たちが作りはったんです」
水ようかんの材料は、駒田氏が実家の京都から送らせたという。せっかくのこしあんを大事に使わねばという遠慮が、にわかにようかんの味をぼやけさせている。
「ラバイ・スカノー!《とても美味しいです》」
彼女はパッと明るい表情を見せると、恥ずかしそうに盆を持って去っていった。
それにしても、遠い異国の地で尽力されている駒田氏たちの活動には胸を打たれる。必要なものがあれば帰国後に送ります、と微力ながら俺も名乗り出た。
「ホンマですか?ほな、せっかくやから早速手伝ってもらいましょか」
駒田氏はひょいと立ち上がると、片付けをしていた生徒たちに何やらリトアニア語で話しかけた。
「実は明日大事なパーティーがありましてね」
来週2月11日の日本の建国記念日とその5日後のリトアニア独立記念日を兼ねて、明日は日本大使館と大学による交流パーティが開かれるという。
「それで私は何をお手伝いすれば?」
すると駒田氏は手をヒラヒラさせながら歩き始めた。
「あの子たちに日本の盆踊りを教えてあげてほしいんです」
開いた口が塞がらない。まったく「コマダ、コマッタァ」である。
3時半になったら学生たちが集まるから彼らと一緒にスギハラハウスに紅白幕を取りに行ってほしいと告げると、彼は荷物をまとめて教室を後にした。スギハラハウスとは、ガイドブックには「杉原千畝記念館」という名前で紹介されている旧在カウナス日本領事館の建物のことである。
「(私が案内しましょうか?)」
市内地図で場所を確認していると、部屋の入り口にベージュのロングコートを着た少女が立っていた。
「シモナ・ソブタイテです。私もここの学生です」
多少訛りはあるが正しい英語が返ってきた。身に着けているものや凛とした立ち姿に育ちの良さが感じられる。行き方だけ教えてもらえればと地図の前を明け渡したが、彼女は深い緑色をした目を細めると、携帯電話を取り出して何やら二言三言吹き込んだ。
「15分ほどで車が到着します。それまでお話ししませんか?」
このお嬢様気取りはどうだと思っていたが、どうやら本物のお嬢様らしい。小雨を切って黒塗りのボルボが現れた。中からはシルバーグレーを撫で付けた初老が傘をたずさえて降りてきた。
「執事のクラウスです」
シモナ嬢に紹介された黒服紳士はうやうやしく頭を下げると、傘を差し出して我々を後部座席へと案内した。
「世界のあちこちを旅されてきたんでしょ?うらやましいわ!」
どこの金持ちお嬢か知らないが、バックパッカーという言葉を初めて知った彼女は、Uターンした車の中で興奮気味にあれこれと質問をしてきた。リトアニアがロシアから分離独立して久しいが、西側の多くはいまだにロシアへの遠慮を続けており、パスポートさえあれば自由に海外を行き来できるわけではないという。
「ロシアは旧ソ連だった国々が西側に付くことを非常に警戒しています。ヨーロッパもロシアとの関係を悪化させたくないから、ロシアから独立したリトアニアに対して微妙な距離感を保っているんです」
シモナ嬢は肩をすくめると窓の外を見た。
自由に世界を見て回りたい――。彼女の夢は単純なものだった。それをまさに実現している俺は、彼女にとってちょっとしたヒーローらしい。
「日本のお話もたくさん教えてほしいわ!」
車はカウナス市街の石畳を軽やかに走り続ける。まるで絵本をせがむ子供のような真っ直ぐの視線につい恥ずかしくなってしまう。彼女が知りたがる世界がそれほど光あふれているとは思えない。”より早く、より便利”にを追求し続けることで得たはずの余裕に我々は本当に救われているのだろうか。
「やっぱりソ連時代が良かったというお年寄りも少なくないです。たしかにバランスは難しいけどリトアニアも世界に追い付いかないと。だから私は世界を見てみたいんです」
カトリック教会の尖塔が日差しを浴びて輝いていた。ひび割れた雨雲から差し込んだ一条の陽の光が印象的だった。
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