2001年2月1日

 トゥール・モンパルナス59階からは、白と紺と黒のモザイク状がパリの裾まで広がっていた。サユリさんは遠くに凛としているエッフェル塔を指さした。


「パリは散歩がおススメなんでしょ?あそこまで歩けるかな」


 夜を湿らせた粉雪はすでに乾き、今朝のパリは春らしい日差しを浴びてうっすらと霞をまとっている。11区クロンヌ駅近くのホテルに荷物を下ろすと、サユリさんは「とりあえずパリ全体が見渡せるところに行きたい」と欲張りなことを言い出した。冷厳な裁判所事務官殿すらかわいい子犬にしてしまうのがパリだ。その願いを叶えるべく、まずはモンパルナスタワーを目指した。

 行先はすべてサユリさんが決めた。地上210メートルからのパリを満喫すると、当てずっぽうにエッフェル塔の方へと歩きはじめた。この街の最適な調理方法は散歩に限る。どんな路地裏を切り取っても絵になってしまう。


 花屋の前でカップルが抱き合っていた。ここはそういう街なのだが、目のやり場に困る激しいキスシーンに出くわすのはこれで3度目だ。


「――お付き合いしてる人いるの?」


 突然始まった取り調べに俺は目を丸くした。


「言いたくなければ言わなくていいけど、」


 しかし裁判所事務官殿は顔を上げると「いなさそうね」と勝手にこの話題を切り上げた。


「だって人を寄せ付けないオーラが滲み出てるもん。”人嫌い”って顔に書いてある」


 さすがに暴言である。そんな顔があるというならアンタの顔には俺より太字で書かれているだろう。こちらが青白むのを見て彼女は慌てて謝った。


「…ゴメン。今のは言い過ぎたわ」


 黙ってやり過ごしたが、彼女はこのやり取りの中で俺の中の“触れてほしくはないボタン”を押してしまった。


 エッフェル塔に登りたいというサユリさんの希望は、中国人団体客の恐ろしく長い列で諦めざるを得なかった。サユリさんは肩をすくめてあっさり諦めると、通りすがりの観光客を捕まえてふたりの写真を撮るようにお願いした。


「早く早く!」


 ぼさっと立っていた俺の手を引くと、エッフェル塔を背景に新婚旅行の二人であるかのように彼女は肩を寄せてきた。


「いい感じに撮れたね!」


 だが俺の顔はロンドン・アイの時より引きつっていた。写真の確認が終わると、サユリさんは『地球の歩き方』を広げて「次はここ!」と明るい声を出した。しかし彼女が指さしたのは、どうしても避けたかった”エトワール凱旋門”だった――。


<…凱旋門には行かないでほしいの。いつかまたリュウと一緒にパリに来たとき登りたいから>


 シャンゼリゼ通りの頂きで凱旋門は少し早い西日を浴びていた。

 サキが突然キスしてきたハーゲンダッツもまだ同じ場所にあった。


 サキと別れて半年以上が経つ。手紙や写真などの思い出を捨ててしまったことは後悔していない。ただ、サキ以上のパートナーはもう現れないだろう。シドニーでの数週間も含め決して十分時間を共有できたわけではないが、互いにすべてを認め合っていた。

 タイミングが悪かったのだ。サキはすでに社会に出て自活しているのに対し、俺は思考も行動もまだ大学生そのものだった。何度か「もう一度やり直したい」と手紙を出そうと思ったが、結局自分を閉ざすことですべてを封印してきた。こうして喪失感や自責を時間の経過に委ねているうちに、恋愛そのものにも興味をなくしてしまった。いつかまた新しいパートナーに巡り会えるかもしれない。しかしまた一から信頼を積み重ねていく作業が途方もなく感じるようになってしまった。


 パリに来たら、サキとの約束だった凱旋門に登ろうと出発前から決めていた。

 これでサキを解放できる。それは区切りというよりもサキとの時間がきれいな思い出になったかという確認作業の意味もあるが、もう誰かを愛することで心のバランスを取ろうとせずとも、一人で突き進める強さを実感したかった。

 凱旋門の屋上からの眺めは美しかった。シャンゼリゼ通りを中心に放射線状に道が伸び、花の都とたたえられたパリの美しさが広がっていた。さきほどサユリさんと行ったエッフェル塔はすぐそばで夕陽を浴びて鈍色に光っていた。


――ポケットから指輪を取り出して、ここで跪くつもりだった。

 いつか海の見える丘の上にゲストハウスを建て、隣には小さなレストランを作るつもりだった。子供について話したことはなかったが、サキはきっとよき母であり子どもたちの友人になっていただろう。

 どうすることもできなかった。ずっと忘れていた感情があふれ出し、パリの茜色を破り捨てたくなった。サキに会いたい。サキを抱きしめたい。フェンスの間からシャンゼリゼ通りのハーゲンダッツが見えた。もう二度と取り戻せないならこのままフェンスを乗り越えて飛び降りてしまいたい。そんな衝動が握った拳の中からこぼれ落ちた。


――いや違う。ダメだ。何を今さら後悔しているんだ!前に進め。すべてをなぎ倒せ!俺は一人で生きていくんだ!

 固く目をつぶり、ハーゲンダッツの赤い看板を瞼の裏で焼き捨てた。


「ねぇ、一緒に写真を…」

 

 言いかけたサユリさんは、下を向いたままこぶしを握っている俺に気付いた。ほとんど彼女の声など入ってこなかった。激しく首を振ると苦し気に言葉を絞り出した。


「…ごめんなさい。ここでは一緒に撮れない」


 サユリさんを後ずさりさせた声は、自分でもゾッとするほどの暗いものだった。

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