2001年2月25日
モンゴル美人と凶暴男は、新しい一日を告げる穏やかな朝日に手を取り合って泣いていた。この二人がロシアでどれほど祝福されない日々を過ごしてきたかは知らないが、とりあえず生きて故国に帰れたという感動だけは十分に伝わってきた。
ウランバートルまであと少しという時に、凶暴男はわざわざ俺のコンパートメントを訪ねてきた。何事かモンゴル語でわめくと、包帯を巻いた右手でひしと俺を抱きしめてむせび泣いた。こうして彼は俺のジャケットをよだれと涙で汚して帰っていった。
「――ウランバートルに知り合いはいるのか?」
下車の準備をしていると、窓の外を眺めていたイワノフ氏がいった。首を振ると、イワノフ氏は雑誌の余白をちぎって何やら書き込みはじめた。
「アンタ中国語がうまいんだろ?だったらガンダン寺近くのハンターホテルを訪ねてみな。イワノフ様の紹介だと言えば悪いようにはされねぇだろう」
そしてカバンの中からウォッカを取り出すと、「そいつに渡してくれ」と新聞紙にくるんで託された。差し出された紙片にはホテルの名前と合わせて「Mr Bayaru(バヤル)」と書いてあった。
ウランバートル駅は、地方役場のような飾り気のない建物だった。
それにしても恐ろしく寒い。殺人レベルの寒さである。今年は記録的な大寒波がモンゴル高原を覆い、西部では牛が立ったまま凍って絶命していたという。
あまりの寒さに何度も立ち止まり、目をギュッと閉じた。とにかく考えるより先に足を動かすことだけに集中した。こうしてガンダン寺へと続く坂の途中で、ようやく「Hunter Hotel」という看板を見つけた。
建物の中は笑顔がこぼれるほど温かかったが、休業中なのか人の気配が全くなく、受付の奥に向かって呼びかけたが何も返ってこなかった。とりあえず玄関の隅にあったパイプ椅子を引き寄せると、1本引き抜いて口にくわえた。すると突然「ノースモーキング!」という声がどこからともなく投げつけられた。いつの間にか受付に現れた老婆がこちらを睨んでいた。あわてて老婆のもとへ駆けよったが、聞くより早く「ノールーム!」と畳みこまれてしまった。そう言い切られてしまっては二の句も継げない。
呆然としていると、廊下の奥で誰かがドアを開けた。背の高い坊主頭で、上半身裸で肩の上にタオルをひっかけたままこちらの様子をうかがっている。
「(バヤルという人を知っていますか?)」
咄嗟にその人影に中国語を投げた。男は首を傾げていたが、やがて奥から声を返してきた。
「バヤルなんて名前はたくさんいるよ。誰だいアンタ?」
「シベリア鉄道でイワノフという採掘師に会った。その男からバヤルという人を訪ねてみろと言われてきた」
薄暗い廊下はしばらく沈黙していたが、やがて明るい声が返ってきた。
「あぁ!イワノフさんに会ったのかい!」
190センチはあろう大男である。盛り上がった肩や太い首筋は威圧的だが、その上に人懐っこい童顔を乗せている。この内モンゴル人は、駆け寄ってくると痛いほど俺の右手を握り、なぜ中国語が話せるのだとも聞かず「ちょっと寒風摩擦してくるから!」と部屋の鍵を俺に放った。
マイナス20度の中、彼は上半身を真っ赤にさせ、薄っすらと汗ばんで戻ってきた。分厚いセーターに袖を通すと、バヤルはさきほどの老婆から大きなポットを受け取り、お茶を入れ始めた。
「ちょっと冷たくなっちゃったけど昨日のボーズ(モンゴル風水餃子)が残ってる。一緒に食べよう!」
そう言うと、彼はせっせとテーブルの上を片付け始めた。訳も分からず黙々と朝食を済ませると、今度はタバコが差し出された。遠慮なく1本いただき、二人で薄汚れた壁を見ながらゆっくりと煙を吐いた。そしてバヤルは満足そうに背伸びをすると、やっと本題に入った。
「で、僕に何の用だい?」
部屋のカギを放る前に聞くべきことだろう。しばし呆気にとられたが、とりあえずイワノフ氏から預かった安物ウォッカをカバンから取り出した。バヤルはそれを手に取ると目に涙を浮かべはじめた。
「ちょうど1年前イルクーツクのバーでチンピラに絡まれてね。その時これと同じウォッカの瓶を振り回して助けてくれたのがイワノフさんだった」
なるほど彼が瓶に頬ずりする理由はよくわかったが、瓶を振り回してという馬鹿々々しいくだりに肩の震えが止まらなかった。
「そこで頼みがあるのだが、実は今朝ウランバートルに着いたばかりで泊まる場所を一緒に探してほしいのだが」
するとバヤルは「なんだ、ホテルか!」と素っ頓狂な声を上げ、部屋のドアから顔だけ出して受付の老婆に向かって何事か叫んだ。
「ツァガンサルの今はホテルも休みだからね。僕はカノジョのところに行くから今日からこの部屋を使って!」
色々言いたいことはあるが、とりあえずツァガンサルとは何のことだ。
「モンゴルの旧正月だよ。知らないの?」
完全なリサーチ不足だった。そういえば昨晩シベリア鉄道の車内でも、凶暴男ら帰る家がここにある連中は遅くまで騒いでいた。
「そういえばカノジョの友達が日本語を勉強してるんだ。後で連れてくるからとりあえず飲もうよ兄弟!」
バヤルは今しがた渡したウォッカの瓶にさっそく手を伸ばした。
いきなり兄弟ができたり、まだ朝の10時も回ってないのに宴が始まったり、ウランバートル初日はとにかく忙しい朝となった。
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