2001年2月26日

 …窓の外がカタンカタンと鳴っている。薄目を開けて首をめぐらす。庭の枯れ木が吹き下ろしに揺さぶられ、何かにぶつかっているのだろう。

 ギュッと毛布を首に巻き付けて、もう一度固く目を閉じる。寒い。いや寒いというより痛い。首、肩、腰。すべてが青アザのような痛みを訴えている。相当な高熱らしい。ゆっくりと息を吐き出し、毛布の中で膝を抱えた。

 異変は十分にあった。夕方過ぎにバヤルやその友人たちが訪ねてきたが、彼らが持参してくれた正月料理のいずれもひどく苦く感じられた。


「4泊5日も列車の中に閉じ込められて疲れてるだろうから、僕たちはそろそろ帰るよ」


 言ってバヤルが立ち上がったのは夜の11時過ぎだった。その頃にはぐったりしており、彼らを見送るのも億劫だった。



 …トラほどの大きな黒猫が牙をむいていた。

 前足を低く、尻を持ち上げたままこちらを睨んでいる。やがて黒猫はゆっくりとしゃべり始めた。


「――オマエなど死んでも誰も悲しまんさ」


 旅行カバンやウォッカの瓶を投げつけると俺は猛然と逃げ出したが、まるで水中をもがいているかのように手足が空回りて前に進めない。個室トイレほどの空間があった。中に体を滑り込ませると、両手で扉を押さえた。黒猫はガリガリと扉に爪を立てた。


「他をあたれ、クソ猫が!」


 唾を飛ばして応じた。

 ガリガリッ!ガリガリ、カタカタ…。タンタン、トントントン――。



 ハッとして目を開けた。誰かがしきりに部屋のドアをノックをしていた。

 起き上がり、スリッパをつっかけてドアを薄く開けた。立っていたのはバヤルではなく、昨晩その恋人に連れられて来た日本語の堪能な女子大生だった。


「…おはようございます。昨日すごく体調が悪そうだったので見に来ました」


 束ねた黒髪を背中に下げ、彼女は口元を隠した薄い桃色のマフラーの下でつぶやいた。


「ごめんなさい。お名前なんでしたっけ」

「ツェレンです。ほら、長寿という意味の」


 思い出した。モンゴル文化教育大学に通う19歳だ。渋谷の繁華街にいる若者よりもよほど正しい日本語が使える。驚くべきことに、彼女はまだ一度も日本に来たことがない。

 マフラーを取ると、ツェレンは長いまつげをしばたかせて微笑んだ。エキゾチックな目鼻立ちは、チベット人の祖母から受け継いだらしい。彼女はツカツカと部屋の中に入ると、「朝ごはんです」と手提げ袋の中からタッパーを取り出してテーブルの上に並べ始めた。


「――おい兄弟!高熱があるって本当かっ!」


 それから1時間ほどして、バヤルとその恋人のドルマーが大騒ぎをしながら入ってきた。


「旧正月に医者まで休んでどうするっ!」


 バヤルは一人で真っ赤になって地団太踏んでいる。どうかそっとしておいてくれ、という願いはかき消され、テーブルには彼らが持参した様々な錠剤が並べられた。抗生物質ならカバンの中にあるからと蚊の鳴くような声で訴えたが、「病人は黙って寝ておけ!」と一喝された。彼らの白熱ぶりは、そのまま緊急開腹手術でも始めかねない勢いだった。


「とりあえずこれを飲んでください。たぶん効きます」


 治療方針がまとまったらしく、ツェレンは濃いピンク色の錠剤を差し出した。色といい形といい、が機能しなくなったオジサマが飲むヤツを連想させる。結局「何にでも効きます」という一言で片付けられ、無理やり口の中に押し込められた。

 その後どれぐらい時間が経っただろう。気付けばすでに夜だった。


「――目が覚めましたか?」


 暗闇からヌッと現れたツェレンに思わず悲鳴を上げた。


「ずっとそこにいたのですか?」


 テーブル横のソファを見て彼女はコクリとうなづいた。


「せっかくのお正月なのに病人の世話をさせてしまって申し訳ないです」


 しかしツェレンは下を向いて首を振った。


「勉強してきた日本語が役立ってうれしいです」


 なんだか恥ずかしくなり、ちょっと汗を流してきますとシャワー室に逃げ込んだ。



「――あとはとにかく食べることだよ!」


 ふたたびドルマーを連れて現れたバヤルは、部屋履きスリッパほどある羊の肉を皿にドカンと乗せて顎でしゃくった。肉が足りないから風邪を引くんだという滅茶苦茶な診断である。しかし今は友情を感じさせる分厚いステーキより、ツェレンが持ってきたあっさりとしたお粥や蒸野菜のほうがありがたい。肉の皿を端によけると、人柄を感じさせるツェレンのタッパーを平らげた。彼女は嬉しそうに下を向いた。


 少しだけ外の空気に触れたくなった。外に出て見上げると、そこにはガラス片のような星屑が瞬いていた。火照った体を通り抜ける風が心地いい。

 やがてツェレンがあっという短い声を上げた。流れ星である。すると彼らは慌てて手を合わせ「トゥイ、トゥイ、トゥイ」と謎の呪文を唱えはじめた。


「モンゴルでは流れ星は誰かの死を表すと信じられています。だから流れ星を見たら『あれは私の星じゃない!』って祈るんです」


 さっきのは俺のかもしれないとつぶやくと、バヤルは遠慮なく俺の肩を叩いた。


「大丈夫、きっと治る!オレたちがしっかり看病するから!」


 また今夜夢の中で黒猫に出くわしたら、イワノフ氏のようにウォッカの空瓶で追い払ってくれるだろうか――。

 夜空に向けられた彼らの横顔を見ていたら、ふと微笑みがこぼれた。

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