2001年2月27日

 精力剤と決めつけていたピンク色の錠剤が効いた。何が練りこまれているのか不安はあるが、夜中に2度も肌着を替えなければならないほど体が火照った。のどの渇きで目を覚ますと、外には穏やかな冬の朝日が差し込んでいた。

 熱いシャワーから戻ると、ツェレンが部屋の前に立っていた。


「元気になってくれたんですね!」


 彼女は桃色のマフラーを外すと、霜焼けした赤い頬をほころばせた。

 手には昨日と同じく魔法瓶やタッパーの入った袋を提げている。彼女は遠慮なく部屋の中に入ると、散らかったテーブルの上をせっせと片付け始めた。

 モンゴルのお年寄りには朝の”スーテーツァイ”は欠かせないという。見かけはミルクティーだが、砂糖の代わりに塩がたっぷり入っており、それも思わず身震いするような量である。


「――そういえば、受付のお婆さんが首を伸ばしてこちらを見ていましたが、」


 少し咳き込みながらマグカップを端によけた。ツェレンは堀の深い顔を急に曇らせると意外なことをつぶやいた。


「…わたし、あのお婆さん好きではありません」


 ツェレンは「ごめんなさい」言って下を向いた。


「気を悪くしないでほしいのですが、あのお婆さんは日本人が嫌いなんです。今朝も、”オマエはあの日本人の嫁になったのか?”とからかわれました」


 それについてはあの婆さんでなくても思うところであるが、それよりも婆さんの心象に焦点を当てる必要がある。


「歴史問題ですね?」


 ツェレンは静かに頷いた。

 1939年日本の傀儡国である満州とソ連の衛星国であるモンゴルとの間で衝突が起きた。日本ではノモンハンと呼ばれるこの衝突において、日ソ双方で2万人の犠牲を出した。


「日本人はノモンハン事件といいます。しかし我々はハルハ河戦争と呼びます」


 あくまで日本軍とソ連赤軍の大規模衝突ではあったが、その殺し合いがここモンゴルで行われ、そのためにモンゴル人が犠牲となったことを忘れてはならない。モンゴルは以後、反日教育を掲げる第一の理由としてこの戦争を語り継いできた。

 受付の婆さんが「日本国」と書かれたパスポートを見ただけで嫌悪感を持つのは当然のことである。そこに足しげく通うツェレンなどとんでもない娘に違いない。

 

「――ただ日本人に限らず、そもそも外国人がモンゴルに来ることをあまりよく思っていない人たちがいます。そしてバヤルとドルマーもそうしたこの国の古い考え方に苦しんでいます」


 反日教育は民主化される前の話だが、今のモンゴル人の対中感情は極めて深刻な状態にある。


「バヤルは内モンゴル出身の中国人です。同じモンゴル族ですが、モンゴル人ではありません。その中国人と付き合っているドルマーは周りから白い目で見られています。彼らは知り合って1年以上になりますが、まだお互いの両親に挨拶すらできていません」


<――大丈夫。僕はウランバートルのカノジョの家に泊まるから>


 泊まれるホテルがないと聞き、バヤルは笑顔でこの部屋を譲ってくれた。


「…そうなんです。実はバヤルは今別のホテルに泊まっています」


 バヤルは「この部屋は1週間先まで支払いを済ませてあるから」と領収書を置いていった。その分は返すと主張したが、彼は笑って受け付けなかった。

 何も知らなかった。俺は額に手を当てたまま固まってしまった。


「…なぜなんです?なぜそこまで」


 そう呻くのが精いっぱいだった。

 そもそも俺はあなた方にとって必ずしも好ましくない日本人だ。しかも昨日今日知り合ったにも関わらず、身銭を切り、家族との正月を後回しにしてまで親身になってくれるのか。

 ツェレンは恥ずかしそうに下を向いたままつぶやいた。


「…だって友達だから。まずは友達からだから」


 心を射抜かれた。そしてその破れた穴から涙があふれ出してきた。

 彼らの友情はともすれば独善だ。しかし彼らにとってそれは相手が認めるかではなく自分が決めればいいことらしい。バヤルは俺が頼った何倍も与えてくれた。なぜそこまでしてくれるのかと聞かれれば、「だって友達だから」という一言で包み込んでしまう。歴史も国籍も関係ない。

 振り返って、己の貧しさを思う。周りが差し伸べてくれた手を「行く手を阻むもの」としてはねつけ、すべてを振り切って日本を飛び出した。どうして理解してくれないのかと憤ることもしないが、その代わり説明もなく静かにカッターナイフで切り離してきた。


「友達だからって同じように感じるとは限らないけど、でも友達と呼ばないと理解し合うことはできません」


 ツェレンは俺の頬を伝うものをぬぐうと微笑んだ。

 理解してもらえなかったからと、勝手に友達と呼ぶのをやめたのは俺なのだ。孤独は、結局は自信のなさの裏返しだった。どうせ理解されないと諦め、関係を断つことでどうにか保ってきた程度の自信なのだ。振り返らずに突き進み続けることで己の正当性を表現しようとしてきたが、ほんとうは誰ひとり失う必要などなかったのだ。


 午後に向かって光の量が増していた。ツェレンは時計を見ると、慌てて俺の頬にハンカチを当てた。


「もうすぐあの二人がここに来ます。その時あなたが泣いていたら、わたしが怒られます」


 俺は無理やり笑うと顔をこすった。わずかに残ったしずくをツェレンの指が優しくぬぐった。

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